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『ザ・スクエア 思いやりの聖域』資本主義と倫理の間を逃走する現代美術の理性 ―映画解釈―

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ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017) リューベン・オストルンド監督

 

  本作は、「フレンチアルプスで起きたこと」のリューベン・オストルンド監督作品で、カンヌ国際映画祭で、パルムドールを受賞しました。「フレンチアルプスで起きたこと」と同様に、危うい人間の理性の本質を執拗につついてくる作品で、本作は、現代美術または、現代美術館がターゲットになっています。実際、昨年、あいちトリエンナーレで起きたこととも、本質的に関係があるように思われるため、以下に考察を行います。バンクシーも関連して少し取り上げます。

 

本作の主人公クリスティアンは、現代美術館のチーフキュレーターで、オストルンド監督の今回のターゲットは、現代美術になっています。主に、ストーリーとしては、「ザ・スクエア 信頼と思いやりの聖域」(以下、「ザ・スクエア」と略)の作品をめぐる一連の騒動と、クリスティアンが、広場でスマホと財布を盗まれたことから起こる一連の騒動が、平行して展開します。そして、その合間に、「ザ・スクエア」と類似した作品と、その作品を模した皮肉めいた不条理なエピソードが、執拗に挿入されています。映画自体が、実質現代美術作品となっており、一連の作品とエピソードから読み取れる共通のメッセージと隠された本質を考察したいと思います。

 

  まず、一連の映画の中の作品群から、現代美術館のサイトにおける芸術作品がもたらす作用について推考します。ヒントになるのが、作中に出てくるフランス人のアートキュレーターで、ディレクターで批評家のニコラ・ブリオーの『関係性の美学』です。映画に合わせて個人的に曲解すると、現代美術作品は、主に、秩序(コスモス)だったサイトに混沌(カオス)を持ち込むことによって、一時的に、鑑賞者の知覚(知性)に、混沌(カオス)をもたらし、新しい知覚(知性)への組み直しを誘発します。

 

  さらに、先ほどの ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』の話を続けると、本自体は、多くの哲学者の知識を元にした芸術論が展開されています。特に多く引用されているのが、フランス人精神分析学者で哲学者のフェリックス・ガタリだそうです。ガタリといえば、ジル・ドゥルーズの共著者として有名ですが、二人が持ち込んだ理想のモデルが、『千のプラトー』に出てくる「リゾーム」(根茎)です。「リゾーム」とは、起点や終点や中心がなく他方向展開する構造を表したもので、一定の体制や思考に捕らわれないために、流動的に逃走する「スキゾ」(分裂的)な行動を推奨します。これに、相対するのが、「ツリー」の構造で、私たちの行動や思考をしばり、「パラノ」(偏執的)傾向をもたらすものです。また、『関係性の美学』のガタリの引用で特に多いのが、ガタリの単著である『カオスモーズ』だそうです。「カオスモーズ」とは「カオス」(混沌)と「コスモス」(秩序)と「オスモーズ」(浸透)の3語を合わせた造語です。以上を参考に、現代美術の理想像を考えると、次のようなことが、ひとつとして、挙げられます。

 

現代美術は、「カオス」と「コスモス」を浸透させる(一時的に接続させる)装置であるかが、どちらかに固定(接続)したままになると、精神病的な反応を引き起こすため、いつでも元通りに(切断)できる状態でなければならない。

 

そこで、上の考えをもとに、なぜ一連の騒動が起こったかを考えます。まず、現代美術を取り巻く環境を考える必要があります。映画の冒頭から既に、言及されていますが、お金の問題です。特に現代美術を支えているのが富裕層であり、資本主義です。資本主義や富裕層は、構造的に、「スキゾ」的な傾向をもつ存在です。特に、プロモーションを行う広告会社の人間は、その代弁者となります。基準が、富をうむかどうかだけで、他は、あまり縛られず、欲望に比較的忠実です。主人公であるクリスティアンも、「スキゾ」的な人間として描かれています。その最たるものが、名前を知らない女性と性交してしまう行動や正当な謝罪を要求する子どもに威嚇する行動にに表れています。(これに対してエリザベス・モス演じる記者は、「パラノ」的な人物として描かれています。)その一方で、二人の娘のよいパパであり、最終的には、素直に謝ることができる人物です。

 

 では、なぜ、プロモーション動画の表現が、大騒動になったのかを考えます。そもそも、「ザ・スクエア」は道徳(正義)をテーマとして扱っています。「道徳(正義)」とは、カントの「純粋理性」においては、真偽が判別できない命題に分類されたにも関わらず、カントの「実践理性」においては、道徳律を以下のように定義しています。

 

「あなたの意思の格率が、常に同時に普遍的立法に妥当しうるように行為せよ」

 

これは、本来「道徳(正義)」が、真理的には、「カオス」的存在にも関わらず、行動としては、「コスモス」的であることを、求められていることを意味します。足元が、曖昧なため、複数の片寄った「コスモス」に接続しやすくなり、なおかつ「パラノ」(偏執)的な症状を生みやすくします。そして、特に実在の人物が写真や映像などで表現されたとき、しかもそれが、社会的弱者を傷付ける表現であった場合は、さらに強い「パラノ」(偏執)的な反応を起こしやすくします。

 

  では、「スキゾ」的な人間である富裕層は、どう動くかというと、例えば富を産むかどうかが一番の基準になると仮定すれば、一般的に、社会的弱者を擁護する方が、しない場合に比べて富を産むことになるで、急に「パラノ」的な反応を示すはずです。ウィトゲンシュタイン言語ゲームでいえば、道徳(正義)の行為は、言語ゲームにとって有益かどうかの判断によってされることになります。これが、本作での執拗に繰り返されるエピソードの本質です。道徳的な行動を取るべきであるというポーズをとっているが、実際は、「意志の格率」など存在せず、特に社会的弱者に対しては、心の奥底に偏見が存在し、必ずしも、心からの同情を伴っているものではないことを痛烈にあぶり出しています。「エスタブリッシュメント」の代表であるアメリカ民主党主流派の言っている正義が、信を得ていないのが一番のよい例です。

 

  クリスティアンの マンションに脅迫文をばらまく行動には、「ザ・スクエア」の趣旨を説明した人物とは思えないほど「意志の格率」はありませんし、強い表現によって、「パラノ」的反応を起こした少年に対しては、差別的な態度で追い返します。そして、スクエアの内側で、協力してチアリーディングをする娘たちを見て初めて、少年に心底から謝罪をしようと行動します。

 

  昨年起きたあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」をめぐる一連の騒動にも、この映画の騒動との類似点が、見られます。それは、「表現の不自由展」の作品のひとつが、実在の人物の写真または映像を使用し、なおかつそれが、国のシンボル(象徴)を傷付つける表現方法であったため、ある一定の人たちに、強い「パラノ」的反応を引き起こさせたという点です。しかも、それは、「道徳(正義)」と同じ構造の「政治哲学(正義)」が、背景にあるので、片寄ったコスモス」(リバタニアリズム、功利主義リベラリズムナショナリズムアナーキズムなど)に接続しやすくなります。しかも、映画よりもっと難易度を高くしているのが、主要な資金源が、富裕層ではなく、市民ということです。

 

  では、作品を撤去すれば、済むのではないかという合理的な考えが当然浮かびますが、現代美術にとって最大にハードルの高い理性が、そこには、立ちはだかっています。それは、映画のなかでも、クリスティアンの謝罪(辞任)会見で、追及されている「表現の自由」です。現代美術にとって最も崇高な理念のひとつである一方で、人を傷つける、すなわち「パラノ」的人々を生み出す可能性が、最も高い理性だからです。

 

  そもそも、アートの専門家ではなく、メディアの専門家である津田大介さんをディレクターに迎えた時点で「表現の自由」を最大化しようとするのは、当たり前であり、大きなチャンスであり、愛知県や名古屋市はお互いに、最初から最後まで、最大限の注意を払いながら津田さんをサポートすべきだったと言えます。

 

ガタリは、晩年、「エコロフィー」(生態哲学)の概念を唱え、環境と政治と哲学(芸術)の間を活発に動き回ることを実践していました。この映画は、現代美術の理性の危うさを明らかにした作品だと思いますが、それを嘲笑うかのように、活発なアート活動(アートテロ)を行っているのが、「バンクシー」です。まさに、ドゥルーズ&ガタリの「リゾーム」モデルやガタリの「エコロフィー」を体現し、上のような騒動の原因である「エスタブリッシュ」への依存や「パラノ」に接続しない理想的なムーブメントを生む理想的な手法だと言えます。(軽犯罪法にはふれていますが、被害者側の利益になることも)。バンクシー監督作品の映画「イクジット・スルー・ザ・ギフトショップ」は、またの機会にふれたいと思います。