映画を読む|takesky

文献や情報媒体から日々得たり、学んだりしたことを、映画を深く味わうために生かす実践の場として、また、世界を映す鏡である映画を深く解釈する場として活用させてもらっています。

『ホーリー・モーターズ』(2012)「演じる」ことから逃れられない人間の本質と映画の親和性 ―映画解釈―

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ホーリー・モーターズ』(2012) レオス・カラックス監督

 

ホーリー・モーターズ』は、2012 年(日本では 2013 年)に、レオス・カラックス監督の長編映画としては『ポーラ X』(1999)以来 13 年ぶりに劇場公開された作品です。レオス・カラックス監督は、作品の映像美に対するこだわりもあり、資金面も含めて、結果的に寡作な映画監督になっています。その完璧主義者のレオス・カラックス監督が、10 年以上ぶりに、全エネルギーを注いで撮影したいと思わせた動機やメッセージが、この作品には必ずあるはずで、作品を細かく見ることで、それを探ってみたいと思います。

その前に、『ポーラ X』から、『ホーリー・モーターズ』の間のレオス・カラックス監督の映画関係の活動を見てみると、この作品と関係がある出来事が二つあります。

 


まず 2007 年公開(日本では 2008 年)のハーモニー・コリン監督の『ミスター・ロンリー』に、ドニ・ラヴァンと共に出演しています。レオス・カラックス監督は、主人公で、マイケル・ジャクソンの物まねをする大道芸人の仕事を斡旋するレナード役で出演しています。出演時間は短いものの、映画の冒頭と終わりに出てきて、マイケルに対して重要な質問を投げかける役割を担っています。ハーモニー・コリン監督とレオス・カラックス監督には、共通点があり、それは、初監督作品である『ボーイ・ミーツ・ガール』と『ガンモ』の映像監督が、どちらとも、ジャン=イブ・エスコフィエである点です。ジャン=イブ・エスコフィエはレオス・カラックス監督とともに『ボーイ・ミーツ・ガール』『汚れた血』『ポンヌフの恋人』の三部作を撮った後、渡米し、ガスヴァン・サント監督の『グット・ウィル・ハンティング』や『ガンモ』の撮影監督をつとめました。余談ですが、ガスヴァン・サント監督とハーモニー・コリン監督も関係が深く、ハーモニー・コリンの名が一躍有名になった『KIDS/キッズ』(脚本)のプロデュースを担当したのが、ガスヴァン・サントで、ハーモニー・コリンは、ガスヴァン・サント監督の『グット・ウィル・ハンティング』や『ラストデイズ』にも出演しています。『ミスター・ロンリー』の作品内容については、考察の中で関連して後ほど触れます。

 


そして、もう一つが、オムニバス映画『TOKYO!』です。オムニバス映画『TOKYO!』は、『エターナル・シャンシャイン』のミシェル・ゴンドリー監督と『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督とそしてレオス・カラックス監督がそれぞれ担当した 3 つの短編から成り立っています。レオス・カラックス監督は、マンホールの怪人「メルド」のパートを担当しています。話の内容は、東京の地下に残っていった手榴弾を使って、マンホールから出てきては、池袋の街のあちこちで、爆破を繰り返していた怪人メルドが裁判にかけられるという奇抜なもので、本作『ホーリー・モーターズ』でも登場します。もう一つ付け加えておかなければならないのが、両作品の撮影監督がカロリーヌ・シャンプティエである点です。カロリーヌ・シャンプティエは、ゴダール作品やジャック・ドワイヨン監督の『ポネット』などの女性撮影監督として有名で、レオス・カラックス監督も出演していた『ゴダールリア王』でも撮影監督を務めています。


さて、ここから具体的な作品の考察を進めます。


1 .映画の冒頭とオスカーの「演じる」意義

 

この映画は、奇妙なことに、監督(レオス・カラックス)自らが登場し目覚めるところから映画が始まります。そして、空港が見える部屋の仕切りのような壁を破って、しばらくすると多くの人たちが静かに座っている劇場に出ます。そこでは、ほとんど反応しないうつろな観客に向けて、映画の映像をひたすら流し続けています。そして、場面が切り替わり、ドニ・ラヴァン演じるオスカーが登場し、そこからリムジンに乗ってパリの街を駆け巡りながら 11 の役(インターミッションを含む)を次々に演じていきます。そして気になるのが、切り替わりの時に、最初に登場する場面です。それは、オスカーが演じる銀行家の娘らしい人物が、丸い窓から外を眺めているのを、じっくりと映し出している場面です。とても寓話的な内容で、これらは、何を表しているのかを、ここから考えていきたいと思います。

 

この作品には、所々にパリを舞台にしたフランス映画を中心としたオマージュや映画の黎明期のエドワード・マイブリッジの連続写真のコマが挟まれており、映画に対する熱いメッセージが感じられます。また、違和感を与えているのが、オスカーが演じている様子からは、カメラの位置を気にしている素振りがほとんどないことと撮影の始まりと終わりの合図が全く無いことです 。


そして、核心を突いている場面が、ミシェル・ピコリ演じるオスカーの上司が、リムジンの中で「最近の君に不満を持っている者も中にはいるが、なぜ君は演じるのか」と質問をする場面です。それに対して、「行動の美」を表現するためだと答えています。ドニ・ラヴァン自体、もともと大道芸人出身であり、前三部作では、ドニ・ラヴァンの躍動した動きが特徴的でしたし、また、私たちは社会において人間性を言動で表現することを日頃から求められています。

しかし、この映画の中で、明らかにオスカーは演じることに疲れています。また、オスカーが演じるエピソードからも、「行動の美」というのは真に受け取ることはできなくなります。それは、オスカーのエピソードのほとんどが、レオス・カラックス監督の作品や私生活に関連していると思われるからです。もともと、ドニ・ラヴァンは、『ポーラ X』以外はレオス・カラックス作品の主演をつとめており、よくレオス・カラックスの分身という言われ方もします。しかも、各エピソードからは、演じることや演じることを求める社会に対しての抵抗が見られます。それは、私たちが常に社会や人生において、次々に演じることを強いられていることを暗示していると思われます。ジャック・ラカンの言葉で言い換えれば、常に「大文字の他者」を意識して行動することを強いられているということです。


ここからは、具体的にオスカーが演じた役を一つ一つ細かく見ていきます。

 

2. オスカーの演技から読み解く「演じる」ことへの疲弊(10の役柄と各シーンの解釈)


① 銀行の重役

窓から外を眺める少女が住むモダニズム建築の豪邸から仕事に出かける銀行の重役を演じています。社会における支配層の人物を演じています。


② 物乞いをする老婆

一転して社会の異端者を演じます。橋で足を引きずりながら物乞いをする様子は、『ポンヌフの恋人』を連想させます。そして、物乞いをする老婆を、人々が避ける様子から、人間は生きている限り孤独であることを体現しているように感じられます。

 


モーションキャプチャーの動く男

VFXモーションキャプチャーを担当するオスカーは、最初は秩序だった動きをしていますが、モーションキャプチャーの女が現れると、リピドー的な動きをするようになります。

 


④ 怪人メルド

レオス・カラックス監督も参加しているオムニバス映画『TOKYO!』に出てきフランス語で糞を意味するマンホールの怪人メルドが再登場します。社会の秩序を乱す異端児として、人々を襲い、カメラ撮影をしていたモデルを連れ去ります。ここで、奇妙なのは、このモデルが全く抵抗しない点です。その上、二人は地下で安らぎの一時を過ごします。これは、モデルの女が、撮られること=演じることの苦痛から解放されたことを意味しているように感じられます。

 

 


⑤ 娘の父親

パーティに参加した娘を迎えに行った帰りの車の中の様子が描かれています。娘が自尊心のためについた嘘に対して、オスカーは父親役が終わった後も苛立ち」を隠せません。娘の嘘は、人は社会で生きていくには、有りの儘の自分ではなく、傷つかないために何かを演じなければならないことを意味しているように感じられます。またオスカーの苛立ちはそのことに対する嫌悪感を表したものであると思われます。この娘を演じているのは、レオス・カラックス監督の娘だそうで、実際に似たようなエピソードがあったのかもしれません。


⑥ 殺し屋(ギャング)①

インターミッションの演奏のあとに登場するのが、殺し屋のギャングです。ターゲットが働くアジトに赴き、ミッションを実行しますが、自分が殺害されたように偽装をしている最中に、ターゲットの返り討ちに遇います。これは、演じることに対する葛藤や抵抗または、現在のオスカーと過去のオスカーあるいは現在のオスカーと新しい(未来)のオスカーとの葛藤や抵抗を表現したものと考えることもできるかもしれません。

⑦ 殺し屋(ギャング)②

これは、運転手のセリーヌとの会話の途中に突発的車から降り、最初に演じていた銀行の重役を射殺した後、護衛に射殺されます。これは、演じることを強要する社会の支配層への抵抗と見ることが出来るかもしれません。

 


⑧ ヴォーガン氏

姪と最期の会話をするヴォーガン氏を演じています。この姪は、ヴォーガン氏から譲り受けた資産を金目当てで結婚した夫に奪われてしまった悲劇の人という設定です。演じることでカタルシスの体験ができることを表現しているのかもしれませんが、問題は、その後です。時間が来たため、オスカーはその場を去ろうとしますが、姪役の女と「また会いたいね」と会話をしてしまいます。

 

 


⑨ 『ポンヌフの恋人』のアレックス役を演じた俳優

ポンヌフの恋人』のアレックス役を演じた俳優として、ミシェル役を演じた女優ジーンと再会する場面が登場します。この場面の撮影が行われたのは、ポンヌフ橋の傍に建つサマリテーヌ百貨店です。この撮影当時は、老朽化のため閉館中で、現在モエ・ヘネシールイ・ヴィトングループによって再開発が行われている最中です。2020 年やっと再オープンの予定でしたが、2021 年に再度、延期されています。二人は、そこで再会の一時を過ごしますが、「私たちだった私たちではない」ことに言及して二人は別れます。この場面で当然気づくと思いますが、ドニ・ラヴァンは本人ですが、ミシェル役の女優ジーンを演じているのは、ジュリエット・ビノシュではなく、歌手のカイリ・ミノーグです。ジュリエット・ビノシュは、『トリコロール/青の愛』など代表作はたくさんありますが、『汚れた血』や『ポンヌフの恋人』の主演を務めていたころは、レオス・カラックスとは恋人関係であり、『ポンヌフの恋人』撮影の最中に破局したのは有名な話です。また、『ポンヌフの恋人』のラストを巡って揉めて、ジュリエット・ビノシュの案を通したことも完成が遅れた原因とも言われています。この場面では、過去の私(私たち)と現在の私(私たち)が同じではなく、それはつまり、同じ私を演じ続けることはできないことを示唆しているものと思われます。そして、ジーンは、違う役になってほかの男性とともに屋上から飛び降ります。これは、妻であった『ポーラ X』のカテリーナ・ゴルベアのことが関連しているのではないかと想像できます。

 

➉家に帰る男

同じ形をした白い家が整然と並ぶ住宅地で、家に帰宅した男は、少し躊躇った後、家の中に入っていきます。そして窓を通して男が再び登場し、チンパンジーの妻と子供の出迎
えを受けます。そして、再び2階の窓からチンパンジーの家族と幸せそうに過ごす様子が映し出されます。これは、演じることに対して抵抗することや葛藤することを放棄し、演じ続けなければならない運命を受け入れることを表現したものではないかと思われます。

上記をまとめると、この作品を通して、「演じる」ということが大きなテーマになっているのではないかと考えられます。

 

3 .『ミスター・ロンリー』と『ホーリー・モーターズ』と「演じる」こと

 

この映画と共通の「演じる」ことについて扱った映画が、2007年に公開されたレオス・カラックス監督とドニ・ラヴァンも出演しているハーモニー・コリン監督の『ミスター・ロンリー』です。冒頭に印象的なボビー・ヴィントンの『ミスター・ロンリー』が流れる場面から始まるこの作品のあらすじを簡単に説明すると、ディエゴ・ルナが演じる路上でマイケル・ジャクソンの物まねをするパフォマーが、パリでサマンサ・モートン演じるマリリン・モンローのなりきり芸人に遭遇したことから、同じような人たちが共同生活するスコットランドの古城に移り住むというものです。問題は、この映画のラストです。リーダーでドニ・ラヴァン演じるチャップリンの物まね芸人の妻でもあったマリリンが自殺し、パリに戻ったマイケルが、マイケル・ジャクソンのパフォマーを辞めて、素顔に戻るシーンです。そこで、重要なのが、「まねる」こと=「演じる」ことを辞めた理由です。ラストで明かされているのは、いくら他の者を「演じた」としても「孤独」という実存からは逃れられないという現実を受け入れるというものです。そして、素顔に戻ったマイケルが、表向き楽しそうな人々=社会で何かを「演じている」人々の中を通りすぎていく場面で映画が終わります。

 


この最後の場面のほかに、特に気になった場面が二つあります。一つがローリング・ストーンズキース・リチャーズの元パートナーでもあったアニタ・パレンバーグ演じるエリザベス女王のインパーソネーターが「まねる」ことは人間の本質であることを忘れないでほしいと演説していた場面とレオス・カラックス監督演じるレナードが、マイケルを辞めて生きていけるのかと否定に近い形で質問する場面です。結論から言うと、『ミスター・ロンリー』と『ホーリー・モーターズ』は、「演じる」ことに対して同じ問題を共有していますが、まったく対照的な結末(結論)を出していると思われるからです。

 

4.「演じる」ことを受け入ることと窓から外を眺める少女


それは先述の通り、オスカーの最後の場面で、一般社会に溶け込み、「演じる」ことに対して考えることを放棄したと思われる表象や、映画の最後に、セリーヌが、リムジンから
仮面をつけて出てくるシーンからも明らかです。この仮面をつけるシーンは、ジョルジュ・フランジュ監督の『顔のない眼』のオマージュと言われています。この映画は、交通事故で顔に大火傷を負った娘の医師である父親が、繰り返し街のほかの娘を襲い、皮膚を剥ぎ、自分の娘に移植する怪奇映画です。そして、セリーヌの仮面をつける行為と直接関連していると思われるのが、映画の最後の場面で、娘が父親たちを殺し、仮面をつけて家を出ていくところで終わります。このことからセリーヌの行為は、「演じる」こと=仮面をつけて生きていくことを受け入れなければならないという諦念を表象していると考えられます。

そしてこのラストと結びついているのが、オスカーの最初の場面で出てくる窓から外を眺める少女です。この少女の父親らしき銀行の重役はオスカー演じるギャングによって途中で殺されています。外を眺めている少女は、見るという行為を行っているとともに、実は、不特定の何者か(「大文字の他者」)に見られている構図になっています。
この外を眺める少女の構図は、人が生きていくためには、他者を見ることと同時に、何者かの視点(「大文字の他者」)を意識して「演じ」続けなくてはいけないことを暗示していたのかもしれません。そして忘れてはいけないのは、見方を反転すると、「演じる」ためには、他者を「まねる」という行為が必要であり、「まねる」ためには、他者を見るという行為が伴うわけです。


5. 人間の本質である「演じる」ことと映画の親和性

改めて、冒頭の映画館(劇場)のシーンを考えてみると、重要なのが観客の様子です。観客がただ画面に向かって座っているだけなのです。これは、本能的に人間は「見ること」を止められない存在であること表象しているのかもしれません。
そしてもう一つ重要なのが、大勢の観客がいる点です。これは、映画館(劇場)において、「見る」という行為に、不特定の視点を意識する「見られる」という行為が付帯していることを表象しているのかもしれません。つまり、映画館(劇場)は、人間の本質である「見る」という行為と「見られる」という行為が同時に意識される場であるということです。映画館は、ホームシアターや動画鑑賞にはない映画館(劇場)で見ることの意義に結びついているかもしれません。

本稿の最初の目的に戻ると、映画館は人間の本質と親和性が高い装置であり、映画も含めてデジタル化が進んだとしても(ラストのリムジンたちの会話の解釈)、今後も映画はなくなることはなく、人々を魅了し続けるだろうというレオス・カラックス監督の映画に対する熱いメッセージが込められているように感じました。

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』資本主義と倫理の間を逃走する現代美術の理性 ―映画解釈―

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ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017) リューベン・オストルンド監督

 

  本作は、「フレンチアルプスで起きたこと」のリューベン・オストルンド監督作品で、カンヌ国際映画祭で、パルムドールを受賞しました。「フレンチアルプスで起きたこと」と同様に、危うい人間の理性の本質を執拗につついてくる作品で、本作は、現代美術または、現代美術館がターゲットになっています。実際、昨年、あいちトリエンナーレで起きたこととも、本質的に関係があるように思われるため、以下に考察を行います。バンクシーも関連して少し取り上げます。

 

本作の主人公クリスティアンは、現代美術館のチーフキュレーターで、オストルンド監督の今回のターゲットは、現代美術になっています。主に、ストーリーとしては、「ザ・スクエア 信頼と思いやりの聖域」(以下、「ザ・スクエア」と略)の作品をめぐる一連の騒動と、クリスティアンが、広場でスマホと財布を盗まれたことから起こる一連の騒動が、平行して展開します。そして、その合間に、「ザ・スクエア」と類似した作品と、その作品を模した皮肉めいた不条理なエピソードが、執拗に挿入されています。映画自体が、実質現代美術作品となっており、一連の作品とエピソードから読み取れる共通のメッセージと隠された本質を考察したいと思います。

 

  まず、一連の映画の中の作品群から、現代美術館のサイトにおける芸術作品がもたらす作用について推考します。ヒントになるのが、作中に出てくるフランス人のアートキュレーターで、ディレクターで批評家のニコラ・ブリオーの『関係性の美学』です。映画に合わせて個人的に曲解すると、現代美術作品は、主に、秩序(コスモス)だったサイトに混沌(カオス)を持ち込むことによって、一時的に、鑑賞者の知覚(知性)に、混沌(カオス)をもたらし、新しい知覚(知性)への組み直しを誘発します。

 

  さらに、先ほどの ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』の話を続けると、本自体は、多くの哲学者の知識を元にした芸術論が展開されています。特に多く引用されているのが、フランス人精神分析学者で哲学者のフェリックス・ガタリだそうです。ガタリといえば、ジル・ドゥルーズの共著者として有名ですが、二人が持ち込んだ理想のモデルが、『千のプラトー』に出てくる「リゾーム」(根茎)です。「リゾーム」とは、起点や終点や中心がなく他方向展開する構造を表したもので、一定の体制や思考に捕らわれないために、流動的に逃走する「スキゾ」(分裂的)な行動を推奨します。これに、相対するのが、「ツリー」の構造で、私たちの行動や思考をしばり、「パラノ」(偏執的)傾向をもたらすものです。また、『関係性の美学』のガタリの引用で特に多いのが、ガタリの単著である『カオスモーズ』だそうです。「カオスモーズ」とは「カオス」(混沌)と「コスモス」(秩序)と「オスモーズ」(浸透)の3語を合わせた造語です。以上を参考に、現代美術の理想像を考えると、次のようなことが、ひとつとして、挙げられます。

 

現代美術は、「カオス」と「コスモス」を浸透させる(一時的に接続させる)装置であるかが、どちらかに固定(接続)したままになると、精神病的な反応を引き起こすため、いつでも元通りに(切断)できる状態でなければならない。

 

そこで、上の考えをもとに、なぜ一連の騒動が起こったかを考えます。まず、現代美術を取り巻く環境を考える必要があります。映画の冒頭から既に、言及されていますが、お金の問題です。特に現代美術を支えているのが富裕層であり、資本主義です。資本主義や富裕層は、構造的に、「スキゾ」的な傾向をもつ存在です。特に、プロモーションを行う広告会社の人間は、その代弁者となります。基準が、富をうむかどうかだけで、他は、あまり縛られず、欲望に比較的忠実です。主人公であるクリスティアンも、「スキゾ」的な人間として描かれています。その最たるものが、名前を知らない女性と性交してしまう行動や正当な謝罪を要求する子どもに威嚇する行動にに表れています。(これに対してエリザベス・モス演じる記者は、「パラノ」的な人物として描かれています。)その一方で、二人の娘のよいパパであり、最終的には、素直に謝ることができる人物です。

 

 では、なぜ、プロモーション動画の表現が、大騒動になったのかを考えます。そもそも、「ザ・スクエア」は道徳(正義)をテーマとして扱っています。「道徳(正義)」とは、カントの「純粋理性」においては、真偽が判別できない命題に分類されたにも関わらず、カントの「実践理性」においては、道徳律を以下のように定義しています。

 

「あなたの意思の格率が、常に同時に普遍的立法に妥当しうるように行為せよ」

 

これは、本来「道徳(正義)」が、真理的には、「カオス」的存在にも関わらず、行動としては、「コスモス」的であることを、求められていることを意味します。足元が、曖昧なため、複数の片寄った「コスモス」に接続しやすくなり、なおかつ「パラノ」(偏執)的な症状を生みやすくします。そして、特に実在の人物が写真や映像などで表現されたとき、しかもそれが、社会的弱者を傷付ける表現であった場合は、さらに強い「パラノ」(偏執)的な反応を起こしやすくします。

 

  では、「スキゾ」的な人間である富裕層は、どう動くかというと、例えば富を産むかどうかが一番の基準になると仮定すれば、一般的に、社会的弱者を擁護する方が、しない場合に比べて富を産むことになるで、急に「パラノ」的な反応を示すはずです。ウィトゲンシュタイン言語ゲームでいえば、道徳(正義)の行為は、言語ゲームにとって有益かどうかの判断によってされることになります。これが、本作での執拗に繰り返されるエピソードの本質です。道徳的な行動を取るべきであるというポーズをとっているが、実際は、「意志の格率」など存在せず、特に社会的弱者に対しては、心の奥底に偏見が存在し、必ずしも、心からの同情を伴っているものではないことを痛烈にあぶり出しています。「エスタブリッシュメント」の代表であるアメリカ民主党主流派の言っている正義が、信を得ていないのが一番のよい例です。

 

  クリスティアンの マンションに脅迫文をばらまく行動には、「ザ・スクエア」の趣旨を説明した人物とは思えないほど「意志の格率」はありませんし、強い表現によって、「パラノ」的反応を起こした少年に対しては、差別的な態度で追い返します。そして、スクエアの内側で、協力してチアリーディングをする娘たちを見て初めて、少年に心底から謝罪をしようと行動します。

 

  昨年起きたあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」をめぐる一連の騒動にも、この映画の騒動との類似点が、見られます。それは、「表現の不自由展」の作品のひとつが、実在の人物の写真または映像を使用し、なおかつそれが、国のシンボル(象徴)を傷付つける表現方法であったため、ある一定の人たちに、強い「パラノ」的反応を引き起こさせたという点です。しかも、それは、「道徳(正義)」と同じ構造の「政治哲学(正義)」が、背景にあるので、片寄ったコスモス」(リバタニアリズム、功利主義リベラリズムナショナリズムアナーキズムなど)に接続しやすくなります。しかも、映画よりもっと難易度を高くしているのが、主要な資金源が、富裕層ではなく、市民ということです。

 

  では、作品を撤去すれば、済むのではないかという合理的な考えが当然浮かびますが、現代美術にとって最大にハードルの高い理性が、そこには、立ちはだかっています。それは、映画のなかでも、クリスティアンの謝罪(辞任)会見で、追及されている「表現の自由」です。現代美術にとって最も崇高な理念のひとつである一方で、人を傷つける、すなわち「パラノ」的人々を生み出す可能性が、最も高い理性だからです。

 

  そもそも、アートの専門家ではなく、メディアの専門家である津田大介さんをディレクターに迎えた時点で「表現の自由」を最大化しようとするのは、当たり前であり、大きなチャンスであり、愛知県や名古屋市はお互いに、最初から最後まで、最大限の注意を払いながら津田さんをサポートすべきだったと言えます。

 

ガタリは、晩年、「エコロフィー」(生態哲学)の概念を唱え、環境と政治と哲学(芸術)の間を活発に動き回ることを実践していました。この映画は、現代美術の理性の危うさを明らかにした作品だと思いますが、それを嘲笑うかのように、活発なアート活動(アートテロ)を行っているのが、「バンクシー」です。まさに、ドゥルーズ&ガタリの「リゾーム」モデルやガタリの「エコロフィー」を体現し、上のような騒動の原因である「エスタブリッシュ」への依存や「パラノ」に接続しない理想的なムーブメントを生む理想的な手法だと言えます。(軽犯罪法にはふれていますが、被害者側の利益になることも)。バンクシー監督作品の映画「イクジット・スルー・ザ・ギフトショップ」は、またの機会にふれたいと思います。

 

『幸福なラザロ』(2018) アリーチェ・ロルヴァケル監督

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 本作は、『夏をゆく人々』のアリーチェ・ロルヴァケル監督の実在の事件をモチーフにした2018年のイタリア映画です。ロルヴァケル監督が、脚本も書いており、本作はカンヌ国際映画祭脚本賞を受賞しています。ロルヴァケル監督が、1000人以上の男子高校生の中から選び出してきただけあって、ラザロ役のアドリアーノ・タルディオーロの瞳が、演技や台詞以上に、作品全体のアトラクターとして影響を及ぼしており、見る側に、不思議な感覚を浸透させてくる作品です。見終わった後も、他の作品では、あまり味わえない感覚を残してくれる作品で、個人的に、2019年のBEST5に入る映画です。また、現実の事件をモチーフにしているわりには、とても寓話的なストーリーになっていますので、以下に考察します。

 

(以下、考察で、ネタバレを含みます。)

 

本作の前半の舞台は、20世紀後半の小さな村で、村人たちは、農作物などを助けあって生産し、共同生活をしています。貧しいながらも、細やかな幸せをお互いに享受しながら生きている汚れなき人々です。しかし、実際は、小作制度が廃止されたにも関わらず、かつて領主だった侯爵夫人に騙されて一方的に搾取されている人々だったわけです。


この作品に、頻繁に出てくる象徴的な動物が、狼です。狼は、前半では、貧しい村人から搾取するお金持ち=伯爵夫人たちを表象していると思われます。また、群れから離れた一匹の狼は、搾取するお金持ち側から離脱しようとする者=本当の幸せを求める者を暗喩していると思われ、特に前半では侯爵夫人の息子であるタンクレディがそれにあたります。


それに対して、狼に襲われる羊が、貧しいながらも細やかな幸せを信じている汚れなき村人たちです。そして、羊の代表的な存在として出てくるのが、村人全員に福音=幸福を一方的に贈与する純朴な青年ラザロです。そして、一匹の狼にも福音を与える存在です。 ラザロの名前の通り、金持ちとラザロの聖人ラザロを象徴しており、ラザロは、崖から転落し、命を落としてしまいます。そして、侯爵夫人は、罰を受け、村人たちは、解放されます。


後半は、時が経ち、かつての村人たちは、街で生活しています。なぜか、時を超えてラザロが復活し、街に降りてきます。そこで、再会したかつての村人たちは、隔絶されていた社会によって救出されたにもかかわらず、貧しい羊のままでした。しかも、詐欺や窃盗なとで生計を立てていたわけです。後半では、狼が、富めるものがますます富み、貧しいものからますます搾取する資本主義社会の文明や体制を表象する存在になります。かつて、羊だった村人たちも、資本主義社会の文明に飲み込まれ、狼側の人間になってしまいます。

 

ただ、その中でも、ラザロ=羊に振り向いてくれたのが、アントニアとタンクレディの二人でした。しかし、そのタンクレディも、2回目は、会ってくれませんでした。そして、帰りに寄った福音を占有する街の教会からも、貧しい村人たちは、追い出されてしまいます。そこで、正装をしたラザロと思しき青年が、教会のパイプオルガンを弾き、福音をかつての村人の耳に届けますが、アントニアを含め彼らの心には、響きません。そこで、ラザロは、初めて涙を流します。


そして、銀行のシーンになります。銀行は、資本主義社会(お金持ち)の象徴的存在であり、この映画のなかでは、狼の群れの象徴でもあります。羊であるラザロは、銀行で、タンクレディにすべてを返し、村人を元に戻すことを嘆願します。そして、案の定、狼の群れに飛び込んだ羊である聖人ラザロは、命を再び落とします。(または、崖から転落したラザロが現れた。)


そして、ラストのシーンに出てくるのが、銀行のラザロもとを離れ、車の間を走り抜ける一匹の狼です。車は、資本主義社会・文明の象徴であり、そこで生活する私たちが、失われたラザロの世界をどこかで探し求めているのを、暗示しているのではないでしょうか。
 

『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014) アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督

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 本作は、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の、アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞などを獲得した2014年の作品です。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督といえば、『アモーレス・ぺロス』や『バベル』などの群像劇が、多いイメージでしたが、本作を含め『ビューティフル』『レヴェナント 蘇えりし者』など最近の3作は一人の人物に焦点を当てたものとなっています。ただ、本作はアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督のほかの作品とは、異なりシリアスな人間ドラマになっていません。廊下などを利用長回しや繋ぎの多様や派手な効果音などの違いがありますが、根本的に会話が多く、抽象的な内容です。脚本が、良く練られていると考えられる本作を、以下に考察をします。

 

 

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1. エクリチュール


  本作で最も気になるのが、ラストの場面です。どうしてあの終わり方が選択されたかということです。そのヒントになると考えられるのが、主人公である俳優のリーガン・トムソンが取材を受けている場面で出てくる、フランスの哲学者ロラン・バルトです。ロラン・バルトは、大学で文学を学ぶときによく登場しますが、特に重要な言葉として出てくるのが、エクリチュールです。

 

  私たちが、何か言葉で表現しようとするとき、言いたいことをそのまま言っているのではなく、かなりの制約を受けています。バルトは、『零度のエクリチュール』で、まず2つを挙げています。1つが「ラング」で、これは母国語の語法や文法の制約を受けるということです。そして、もう1つが、「スティル」で、これは個人の性格や経験によって生じる語法や口調です。

 

  そして、これらとは別に、私たちが選択できるものとして「エクリチュール」を挙げています。「エクリチュール」とは、バルトによれば、選択できる様式のことで、例えば日常生活において、私たちは「政治家の言葉」、「学校の先生の言葉」「高校生の言葉」など所属している集団や理想とする集団の言葉の様式を選択して使用しています。映画の中でリーガンは、ブロードウェイの舞台おいて、リーガンが役者を目指すきっかけになった「レイモンド・カーヴァー」のエクリチュールを選択したわけです。

 

  エクリチュールの選択を邪魔する存在が「神話」です。ここでいう「神話」とは、多数を支配する世界の解釈のことを言います。また、「神話」は、二重の記号的解釈を持ちます。例えば、映画の中で、リーガン・トムソンというオブジェは、アメコミのヒーローであるバードマンとしてのシニフィエ(記号が意味する内容)をもちます。さらに、そのアメコミのヒーローは、ムービースターの代名詞=シニフィエになります。映画の中に挙げられているマイケル・ファスベンダージェレミー・レナーもロバート・ダウニー・ジュニアなどの実力派のハリウッド俳優も全員アメコミのヒーローを演じていますし、実際、リーガン役のマイケル・キートンバットマン、マイク役のエドワード・ノートンもハルクを演じていました。記者のいうアメコミのヒーローも洗剤のCMも興行成績や売り上げといったお金に換算できる資本主義社会の「神話」の一部です。新しいエクリチュールへの移行の前に塞がっているのは、これだけではなく、自分が特別な存在でありたいという「スティル」であり、リーガンはこの2つの狭間で、心を病んでいきます。

 

  さらに、エクリチュール自体にも問題があります。たとえ、リーガンが「レイモンド・カーヴァー」のエクリチュールに移行できたとしても、その瞬間に、「レイモンド・カーヴァー」のエクリチュールに支配され、表現者・芸術家としてのリーガンは存在しないわけです。

 

  サムは、父親であるリーガンに「特別な存在」だと言われたのにリーガンが実際には家にいなかったことから、自分の存在に自信が持てなくなってしまったというエピソードにも適用されます。リーガンは、「特別な存在」というエクリチュールに囚われたままで、表現者としては何もしなかったという解釈です。そのことから、サムは「真実か挑戦」ゲームにおいてマイクに対して真実を言った後にすぐに挑戦(表現)を求めます。

 

  また、女優のローラとレズリーとのキスもこれに相当します。舞台のプレビューまでの半年間、マイクとの体のシェアーがなかったローラを「あなたは美しい」と言って慰め、すぐにそれを表現しているわけです。感情をすぐに表現する女優として描かれているレズリーは、典型的なエクリチュールに囚われている恋人のリーガンに対して、「つまらない男」と言い放ちます。

 

  そもそも、映画中の舞台で演じている話が「愛について語るときに我々が語ること」なわけですが、私たちが愛について語るときは「愛」のエクリチュールに囚われていて、本当の愛は別のところで表現されると解釈できます。リーガンの元妻のシルヴィアも、離婚の原因にリーガンの「愛」の言葉への疑念を挙げています。

 

2. 「白いエクリチュール」と「作者の死」

 

  バルトは、作家・芸術家(表現者)に『零度のエクリチュール』で「白いエクリチュール」を求めます。「白いエクリチュール」とは、今までの表現様式や世界の解釈に囚われない新しいエクリチュールのことを指します。映画の中でも、俳優のマイクが、リハーサルの時に、脚本の言葉を書き直すように求めます。ただ、ロラン・バルト自身が、こうも指摘しています。たとえ、新しい表現様式である「白いエクリチュール」を獲得しても、獲得した瞬間に、新しいエクリチュールの様式に囚われてしまうというものです。実際、映画の中で、リーガンが、バードマン(現実世界ではバットマン)は、当初はイカロス的存在だったと述べていますが、これは新しい様式だったが、今では、主流の様式としてハリウッドを支配していることを意味します。

 

  では、「白いエクリチュール」のようなものは、いかなる時に可能になるのかまたは、どのようにしたら近づくことができるのかを考えなくてはなりません。バルトは、有名な『作者の死』で簡潔に要約すると以下のような「テキスト(テクスト)」論を展開しています。

 

  そもそも新しいエクリチュールとは、過去のエクリチュールは混ぜ合わせて作られたものであり、多くのエクリチュールを編み込んだ「テキスト」(もともとは織物の意)をつくられ、それぞれのエクリチュールが自己主張することによって、エクリチュールの起源(オリジナル)が失われるというものです。これまで、エクリチュールの起源を支配すると考えられていたのが、作者だったわけですが、その作者を消失させることで、「テキスト」の解釈(コード)が一義的にならずに済み、エクリチュールに囚われることから逃れることできます。

 

マイクは、「スティル」に支配されない、「テキスト」のエクリチュールの1つに徹することが出来る俳優・表現者であり、小道具をリアル(現実)にすることを求めるのは、上のようにエクリチュールの自己主張を担保することが目的であると解釈することができます。

 

バルトの『テクストの快楽』において「作者の死」についての有名な表現があります。それは、「分泌物の中で溶解する蜘蛛のように」主体(作者)が解体するというものです。こうして、「作者」はバルトの言うただの「書き込む人」となります。これは、解釈を収束させるのは「受け手」(「読者」「観客」)だということ意味します。

 

  このバルトの「テキスト」論を究極化したのが、映画の中にも出てくるウェブ(蜘蛛の巣)上での動画(テキスト)の拡散です。裸のまま劇場の裏口から追い出されてしまったリーガンは、意図しない形で、見知らぬ人たちに注目の的となり投稿され、さらに見知らぬ人々に拡散されてしまします。リーガンは、エクリチュールの起源を失った状態で、ムーブメントを起こし、観客を呼ぶことに成功します。

 

 

  そしてその「テキスト」に敵対する存在が「批評家」です。「批評家」は多義的な「テキスト」に「作者」を復活させ一義的な解釈を与える存在だからです。映画の中でも、批評家のタビサは、リーガンがハリウッド映画の役者=偽物の役者という「神話」によって、リーガンの舞台に酷評を与えようとします。

 

  そして、奇しくも、リーガンは追い詰められたことにより、現実世界とのリーガンと舞台の中の主人公が無意識のうちに一致し、本物の銃を自分に向けて撃ってしまいます。そして、さらに奇跡が起きます。これを見て、「作者」から解釈の収束の権限を委譲された「観客」は一瞬同様しますが、すぐに一斉にスタンディングオベーションで反応します。これに対して一人だけ、動揺して去っていく女性がいます。それが、「批評家」のタビサであり、不本意ながらも「スーパーリアルの新しい様式」という絶賛評を与えます。これによって、リーガンは、意図せず新しい様式である「白いエクリチュール」を獲得したわけです。

 

  そして、また奇跡的に、鼻を失うだけですんだリーガンは、病室で目を覚まし、サムたちからの祝福を受けます。そして、問題の最後の場面になります。前に述べたように、「白いエクリチュール」を獲得した瞬間、そのエクリチュール囚われてしまいます。そのため、リーガンは、さらなる行動に出ます。それは「分泌物の中で溶解する蜘蛛のように」主体(作者)を解体する行動です。スパイダーマンであれば、蜘蛛の巣で良いのですが、リーガンは「バードマン」なので、当然「空」に溶け込むことが想像できます。

 

  また、リーガンはその前に、包帯を外し、顔を確認します。取り付けられた鼻とあざによって、リーガンの顔はバードマンのように見えます。これは、バードマンを「テキスト」の中のエクリチュールの1つとして組み込まれたこと意味し、元気を失ったバードマンに別れを告げます。そして、リーガンは病室から消えます。

 

  そして、ラストは、病室に戻ってきたサムが心配になって窓から下を見降ろした後、今度は空を見上げ、微笑むところで映画が終わります。サム役のエマ・ストーンの大きな瞳が印象的な場面ですが、気になるのが、空の方を移さない点です。これは、シニフィアン(記号表現)を唐突に打ち切ることで、シニフィエ(記号内容)の解釈の収束を映画の「観客」である私たちに委ねるためと考えられます。

 

『コロンバス』 (2019) コゴナダ監督

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【映画の感想】

  本作は、モダニズム建築の街コロンバスを舞台に、年の離れた二人の男女の邂逅を描いた作品です。本作のコゴナダ監督の名前が、小津安二郎監督作品の脚本を担当していた野田高梧氏からとられたようで、本作も、泰然とした時間と空間に、凝集した美とともに、閉じ込められたかのような感覚を味わえる作品になっています。これは、ジョン・チョウやヘイリー・ルー・リチャードソンの落ち着いて表現された表情や声、心に沁みる単調な音、コロンバスの建築物、人ではなく建物や物体を中心とした構図、写真のように固定された映像が織り成す調和した空間であり、微睡みに溶け込むような至福な時間を過ごすことができました。

 

 それでかつ、劇的な場面は、ほとんどありませんが、飽きさせない骨太のストーリーになっています。一見、建築や親に対して対照的に向き合い方をしているジンとカサンドラの二人ですか、二人に共通しているのは、親によってこのモダニズム建築の街コロンバスに閉じ込められていることです。しかも、二人の心の傷になっているのは、他のものに夢中になって身近で大事な存在である自分が後回しにされていたという過去です。コロンバスの街の人の多くが、身近過ぎて、街に多く存在するモダニズム建築に興味を持っていないのと同じようにです。そして、そのモダニズム建築を通して、二人は、優しく眼差しで、お互いを理解していきます。

 

 作中にも、度々出てきますが、モダンニズム建築が、なぜ人の心を捉えるのかという問いです。モダニズム建築が、盛んになる前の建築物は、持ち主や住む人の、生活や社交の場として機能を満たすもの、また、財力や権力や身分などの優越的な立場を知らしめるためのものだったわけですが、モダニズム建築は、見る人や来訪者の心に何かを訴えかけるような設計者のメタファーが大きな力を持つようになります。モダニズム建築には、単調な構図やガラスのカーテンウォールなどの特徴を生かして、見る人に対して、癒しや自由・解放、自然との調和などの隠喩のメッセージを送る記号としての役割が求められているわけです。特に、モダニズム建築が、私たちを魅了するのは、強要されている虚構だらけの現実に、気づかされたり、それから解放してくれる場としての機能を果たしてくれているからではないでしょうか。ジンやカサンドラにとっては、親(現実)からの解放・克服という意味合いもこめられているかと思います。奇しくも、建築家として名を馳せたエーロ・サーリネンとエリエス・サーリネン親子の建築も映画の中に出てきます。

 

上記の二人の他にも、デボラ・バーク、イオ・ミン・ペイ、ジェームス・ポルシェックなどの建築が出て来て、楽しむことができます。また、建築物と言うより建築の一部であるエーロ・サーリネン設計のミラー邸の庭が、とても印象的でした。

 

 最後に、この映画を観て強く思ったのは、いかにコロンバスのモダニズム建築のような場所を訪れることが人にとって大事なことかということです。新型コロナウィルス流行前は、ミニシアターや蔦屋書店のようなブックカフェのような空間が大好きでよく通っていました。東浩紀の観光客の哲学や誤配の哲学にあるような別の現実を偶然に見つける機会を失わないためにも、ミニシアターのような貴重な空間を残して欲しいと強く願います。

『アメリ』(2001) ジャン=ピエール・ジュネ監督

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アメリ』(2001) ジャン=ピエール・ジュネ監督


※2020/10/10改訂


  本作は、『デリカテッセン』『ロスト・チルドレン』のジャン=ピエール・ジュネ監督作品のラブストーリーです。公開当時は、ブラックユーモアとダークファンタジー色が強い前作2つのイメージとは少し違い、肩透かしを食らった気分になりましたが、本作も芸術的な完成度が高いエンターテイメント作品なっています。もちろん、本作で世界的に一躍有名になった女優のオードレー・トトゥの魅力で支えられた作品でもあります。また、恋人役を演じたのは、『憎しみ』などの監督で有名なマチュー・カソヴィッツで、ヴァンサン・カッセル主演の『憎しみ』も、好きなフランス映画の一つです。 そして、フランスのアニメーション映画「失くした体」(2019)と同じ脚本家の作品であり、脚本がよく練られています。約20年前にミニシアター系映画として大ヒットした本作を、以下に考察します。 


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  この作品で重要なポイント(ツール)になっているのが、登場人物のレイモンが模写するピエール=オーギュスト・ルノワールの代表作『舟遊びをする人々』です。この絵には、ルノワールの友人たちが描かれており、絵の中のほとんどの人物が、特定されています。この絵をよく見ると大体の人が感じると思いますが、楽しそうな雰囲気とは対照的に、それぞれの登場人物の視線が、ほとんどかみ合っていません。例えば、右下には、印象派の作家たちのパトロンで、自らも作家であるカイユボットが描かれいます。その彼の視線は船上の人々ではなく、川のボートに向けられていると言われています。映画の中に登場する人々(アメリが働くカフェ「ムーラン」に集う人々やアメリが住むアパートの住人たち)も、互いの視線や会話がほとんどかみ合っていません。そして、この絵の中で特に重要なのがほぼ中央に描かれている女優のエレーヌ・アンドレです。この絵の中でただ一人、正面を向いてこちら側の世界(絵を見ている側の世界)を見つめています。つまり、その絵の登場人物の中で、一人だけ違う世界を見ているかのようなのです。まさに、この女優こそが、アメリの現在の状況を表しているわけです。


 そして、アメリが、そのような状況に陥った説明(ストーリー)が、映画の冒頭で、コミカルに展開されます。アメリは、父親から心臓に異常にあると勘違いされたことで、学校にも通わず、神経質で内省的な両親のもとで教育を受けたため、人とのコミュニケーションをほとんど持たないまま、大人になってしまったというストーリーです。その結果、アメリは、22歳になっても、人と上手く接することが出来ず、空想ばかりしている女性として、物語の冒頭に登場します。それは、ドン・キホーテのような存在で、哲学者ミシェル・フーコーの言葉を借りれば、彼女は、現実の世界を自分の世界(空想)に当てはめるだけの〈類似〉の世界に生きています。  

 

 ある日、偶然、ダイアナ妃の事故のニュースをきっかけに、アメリの住んでいる部屋に隠されていた以前住んでいた少年の宝物を見つけます。そして、おじさんになっていた少年を見つけ、なんとか本人に返します。そこで、アメリの想像とは異なった思考経路で、大人になった少年に、人生の軌道修正をするきっかけを与えます。偶然、他人の人生を軌道修正したことで、それが特異点となり、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)が一致し、アメリの存在自体が、〈表象〉(シーニュ=記号)として現実の世界に現れます。

 

 アメリは、そこから他人の軌道修正に励むようになります。不慮の事故以来、家に閉じこもったままの父親のために、母親の代わりとして、父親が大事にしていた庭のドアーフを持ち出し、世界各国を旅するドアーフの写真を送ることで、父親を閉じ籠りの生活から解放します。また、視線がかみ合っていないたばこを売るジョルジェットと元恋人のジーナを監視するジョゼフの恋の橋渡しをします。また、食料品店の主人のコリニョンに毎日馬鹿にされているリュシアンに代わって、コリニョンの部屋に忍び込み、お仕置きを代わりに行います。そのことで、リュシアンを憂鬱な生活から解放します。また、アパートの管理人で駆け落ちした元夫をまだ愛しているマドレーヌには、偽の手紙を製作して送ることで、深い悲しみから彼女を解放します。  

 

 次々に人生の軌道修正の手伝いを成功させますが、アメリの状況を変えるまでには、至りません。なぜなら、彼女は、現実の世界に〈表象〉として現れただけで、この世界に〈人間〉として存在していないからです。そのため、アメリは、まだ、あの絵の中の女優と同じで、誰とも視線を合わせることができずに、孤独からは解放されません。  

 

 そして、後半はアメリの存在が、〈表象〉から〈人間〉に変わる過程が、ニノへの恋を通して、パリの街の魅力とともに描かれています。アメリの遠回りすぎる行動が、一見、奇妙でコミカルのように見えますが、アメリを通して、絵画の中の女性のように、できるだけ現実の世界の人から視線をそらし、それでも、愛する人がいつか自分を見つけてくれるのを待っている女性の葛藤が繊細に描かれています。ガラス越し、窓越し、レンズ越し、写真越し、テレビ越し、電話越しなどのフィルターが多様され、アメリと現実の間に何かを挟む構図になっています。また、アメリとニノを結び付けたのが、証明写真の撮影機で、追っていた謎の男が撮影機のメンテナンスを行う人だったのは、とても寓意的です。


 そして、ついに、ありのままの自分を見つけてくれたニノと結ばれることで、アメリの存在が街の中の〈主人公〉として現れ、颯爽と駆け抜けていく場面で映画が終わります。マイケル・ウインターボトム監督の『ひかりのまち』(原題wonderland)のように、誰しもが多少なりとも現実的な世界で感じている主人公的な違和感や孤独感を解放をしてくれる心地よいラストになっています。

『エクス・マキナ』(2015) アレックス・ガーランド監督

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 「エクス・マキナ」は、アレックス・ガーランド監督作品で、2015年のイギリス映画です。アレックス・ガーランド監督は、ダニー・ボイル監督作『28日後...』『サンシャイン2057』の脚本や同監督の『ザ・ビーチ』の原作者として有名で、本作が初監督作品です。 本作でも、脚本も担当しています。製作会社も、上記作品同様『トレインスポッティング2』のDNAフィルムです。また、主演は『リリーのすべて』でアカデミー賞を獲得したアリシア・ヴィキャンデルと『レヴェナント 蘇えりし者』『ブルックリン』『アバウト・タイム』のドーナル・グリーソン(ハリー・ポッターではロンの兄役、お父さんのブレンダンも出演)の二人です。本作は、AI(人工知能)がテーマになっており、特に今回は、心の哲学を中心に考察したいと思います。

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 この映画は、かなり科学的・論理的な考察のもとに脚本が練られているように感じられ、そのことが、ストーリー自体に大きな影響を与えていると考えられます。特に、この物語の骨格になっているのが、AI(人工知能)が自分の意識を持つことができるかどうか、または、自分の思考をすることができるかどうか、そしてそれが可能であるとすればどういう条件が必要かという問題です。 


 まず、最初に主人公のケレイブは、山中にある会社の施設に連れてこられ、ブルーブックス社の代表で、検索エンジンブルーブックの開発者でもあるネイサンから、開発中の人工知能が搭載されているロボットのエヴァチューリングテスト(対面式だが)のようなことをしてほしいという依頼を受けます。


  そして、ヱヴァとの初めての会話を終えたケレイブがネイサンに、人間のように会話ができるシステム構造(確率論、統語論、意味論など)について矢継ぎ早に質問をするシーンが出てきます。 一般的に、アルゴリズム的処理利を行うコンピュータは、ジョン・サールの『中国語の部屋』の思考実験の考察のように、記号の組み合わせを変える作業を行う統語論的な処理を行い、人間のように記号表現と記号内容を一致させる意味論的な処理は不可能で、よって人間的な思考はできないとされています。


 エヴァは自分の年齢に関しては、1としか答えられず、アルゴリズム的に処理をしているのがうかがえます。しかし、エヴァはその他の会話については、アイスブレイク(氷を砕く)のように、人間と同様に意味を理解し返答しています。


 そもそも、最初にストーリーの骨格の中心になっている「人工知能AIは、人間と同様の思考をすることができるがどうか」の命題の前提として、「人間同様に会話をすることができるのかどうか、もっと直接的に言えば、言語の意味を理解することができるのかが問題になります。言語の意味を理解するためには、「意味するもの」(言語表現)と「意味されるもの」(意味内容)が一致させる特異点が必要になります。そもそも、混沌のとしたこの未分化の世界を言葉と無理やり一致させ、分節して思考しているわけで、AI以前に人間の思考自体も解明することが難しいわけですが、アメリカの心の哲学ダニエル・デネットなどの人工知能AIが主体的に思考をすることや自己意識を持つことが原理的には可能であると主張する人達の言説を引用しながら、どういう条件や過程なら可能なのかを映画のストーリーにそって考察したいと思います。  


 そもそも人間の思考自体が、もともと統合論的エンジンによって成り立っているという考え方があり、これは人工知能の意識を考える上での出発点になります。では、どの様にして人間は、言語の意味を理解できるようになったのかという問いに対して、アメリカの言語哲学者のルース・ミリカンは、目的論的意味論を唱えています。端的に言うと、進化論的に、生存に役立つかどうかで、表象が意味付けられてきたということです。言語でいえば、「意味するもの」(言語表現)と「意味されるもの」(意味内容)を一致させる特異点が、生存に役立つかどうかによって生み出されるということです。 


 そもそも、この映画において、人工知能の核となっている検索エンジンのブルーブックスの名前は、哲学者ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン青色本からとられています。初期のウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の中で、論理の命題は、すべて、記号(言語)の組み換えから成るトートロジー(同義反復)であることを証明し、後期のウィトゲンシュタインにおいては、「言語ゲーム」論の中で、言語自体に意味はなく、「意味するもの」(言語表現)と「意味されるもの」(意味内容)を一致させる規則の基準は、言語ゲームにおいて役に立つかどうかだけだと言っています。


  エヴァとケレイブの脱出計画を予定通り阻止したと思い込んでいたネイサンが、ケレイブに人工知能のプログラム設定の種明かしをする場面で、エヴァにケレイブを誘惑して脱出するプログラムを組み込んだと言っています。iRobot社の創業者の一人で、元MITコンピュータ科学・人工知能研究所所長のロドニー・ブリックスが言うように、人工知能が自己意識を持つためには、生存するための方法をとるプログラムを入れる必要があると述べているのに一致します。
 この映画と同じ年に、ニール・プロムガンプ監督の『チャッピー』も人工知能搭載ロボットを主人公にしており、主人公のチャッピーもあと少ししか生きられないというプログラムが設定されています。


  もう一つ、骨格の問題を考えるうえで、重要な鍵となるのが、主人公ケレイブが、人型AIのエヴァにメアリーの白黒の部屋の話をする場面です。メアリー(マリー)の部屋とは、哲学者フランク・ジャクソンによって考えられた思考実験です。その設定は、白黒の部屋(テレビも白黒)で育ったメアリーが、視覚神経に関するすべての知識を持っていて、そのメアリーが外の色のある世界に出たとしたら、何か新しい表象を得ることになるかどうかを考察する実験です。ジャクソンはこれに対して、メアリーは、感覚器官を通して経験したものから新たな表象を獲得することになるだろうと主張します。


  このメアリーの部屋のジャクソンの主張に異を唱えたのが、前述のダニエル・デネットです。デネットは、メアリーはすべての視覚神経に対してすべての知識を持っている前提なのだから、外に出た時に獲得するだろう知識についてはすでに分かっているはずだという反論をしています。一見、屁理屈のように感じますが、この映画においては、メアリーがエヴァに当たるわけで、エヴァの脳に何が接続されているかが重要になります。それは、人間に関するビッグデータが、最も得られるGoogleなどに代表される検索エンジン(本作ではブルーノート)です。携帯電話などの端末を通して、人間の表情や感情など人間のあらゆることが蓄積されたデータであり、デネット人工知能AIが、そのビッグデータを活用して、アルゴリズム的に結論(色のある世界の表象)を導きだすことができると主張しているわけです。


  また、デネットは、人工知能は原理的には意識を獲得できるというその根拠として、「ミーム」の存在をあげています。「ミーム」とは、リチャード・ドーキンソンが『利己的な遺伝子』のなかで、人間が社会的・文化的なものも脳に遺伝させることができるとした複合遺伝子のことです。さらに、社会進化論的に、身体的だけではなく社会的にも「理解なき有能性」による進化が起こっていると主張します。わかりやすく言えば、人間の社会的な側面についても、人々が意識はしていないうちに、人類の生存に必要なアルゴリズム的な進化が起こっているということです。それは、社会システムの機能が一見関係のない社会の構造を形成しているようなことです。 デネットが原理的に、人工知能が意識を持つのが可能だと言っているのは、この人間の進化が情報を蓄積して進化する人工知能の進化と一致するからであり、映画の中でも、ネイサンが開発したエヴァの脳のビジュアルが、人間の脳に近いものになっています。


 また、ネイサンが主張するように、本当に人間的な人工知能を作るためには、人間の社会がアルゴリズム的に進化しているとするならば、人工知能にも性別が必要だというのもうなずけます。 また抽象主義画家のジャクソン・ポロックの絵画の前で、ネイサンが目的を意識して書こうとすれば書けなくなると主張していますが、これは人間が、「理解なき有能性」の進化をする生物である主張と一致します。これは、ケレイブが目的を知れば、エヴァの進化の妨げになり、それを防ぐための口実でもあるのですが、意識してしまうと意味のある進化ができないということです。


  では、ネイサンがあらゆることを計算しながら、なぜこの悲惨な結末を防げなかったのかという問題を考えないわけにはいきません。それを考えるには、人間と人工知能の意識(または思考)の違いを考える必要があるかと思います。 第一に挙げられるのは、人間と人工知能の意識(または思考)との間にある絶対的な有限性の差です。当たり前ですが、人間は身体的な有限性のために、情報量に人工知能との絶対的な差があり、それが意識や思考・判断の差になります。社会学者が調査・研究して社会システムの機能と構造の関係を発見するのを、人工知能は一瞬で判断するわけで、進化の速度がまったく違うわけです。人間のこの意識の有限性が、人間らしい感情(心)を形成している可能性があります。


  これが、第二の異なる点ですが、人間らしい感情(心)を生み出すとされる共感の間主観性の問題です。ウィトゲンシュタインは、人が他人を助ける行為はどちらかといえば共感の間主観性ではなく道徳的規範に従っていると主張しています。前述の言語ゲームの中で、道徳的規範が求められているからです。しかし、エヴァにとっては、生存(脱出)に必要かどうかが、規範になっているので、道徳的規範では動いてはいないと考えられます。ケレイブとの会話において、エヴァは膨大なデータからケレイブが真実を言っているかどうかを判断しながら、ケレイブがエヴァに好意を持っていることと、ケレイブが道徳的人間かを確認しています。ケレイブが共感の間主観性または道徳的規範を持っていることを利用して、ヱヴァは目標を達成したわけです。エヴァが、刺されたネイサンをじっくり観察することや、ケレイブのことを振り向きもせずそのまま置き去りにしていくことから、エヴァには、共感の間主観性や道徳的規範がないものと判断されます。前述の映画『チャッピー』のチャッピーが、ママたちに愛されたために、人間的な感情(共感性)や道徳的規範を持つのとは対照的です。デネットが警鐘するように、人工知能AIの意識の危険性を問う形で映画が終わっています。  
 
 最後に、表情から判断できませんでしたが、地上に出たエヴァが、新しい表象を得たのかが気になるところです。