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アンドリュー・ヘイ監督の脱"男らしさ"の眼差し 『WEEKEND ウィークエンド』/『荒野にて』

 

 

 

アンドリュー・ヘイ監督の脱"男らしさ"の眼差し 『WEEKEND ウィークエンド』/『荒野にて』


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目次


『荒野にて』(2017)/ 『WEEKEND ウィークエンド』(2011)
1 『荒野にて』における、「男らしさ」を求める父性社会に適応できなかった少年
2 アンドリュー・ヘイ監督の撮影方法とゆったりと見守る視点
3 『WEEKEND ウィークエンド』における、「男らしさ」を求める父性社会の片隅で、幸せを探す主人公
4 『WEEKEND ウィークエンド』における、「男らしさ」を求める父性社会とカセットレコーダーに込められた意味


『荒野にて』(2017)/ 『WEEKEND ウィークエンド』(2011)


 11月19日は、"国際男性デー"で、男性の心身の健康やジェンダーフリーの価値観を推進するために設立されたものです。その中には、保守的"男性らしさ"を強制しない社会の実現が含まれます。この国際男性デーに関連して実施された各種調査やアンケートから、多数の男性が、"男らしさ"に対して、何らかのストレスを感じていることが明らかになっています。

そんな"男らしさ"に、焦点が当たっている、国際男性デーにおすすめの映画が、アンドリュー・ヘイ監督の『荒野にて』と『WEEKEND ウィークエンド』です。

  "男らしさ"をめぐる考察については、あとで詳しく説明しますが、まずはこの2つの映画の魅力について語ります。

 まず第一に、『WEEKEND ウィークエンド』、『荒野にて』ともに、撮影風景が凝っているため、映像自体が美しく、シアタールームなどで見ると一層、至福の映画時間を過ごせる映画の一本です。


  そして、第二に、主人公を演じる俳優たちが、魅力的です。『WEEKEND ウィークエンド』では、トム・カレンの優しい丁寧な語り口調を始めとした、演技だけではない、トム・カレン自身の人間性がこの映画を魅力的にしています。『荒野にて』では、ヴェネチア国際映画祭新人俳優賞を、獲得したチャーリー・プリマーが、繊細な少年役を、見事に演じています。そして、カメラを通した、優しい視線を感じさせるアンドリュー・ヘイ監督の手法が彼らの魅力を、さらに大きくしています。

 また、特に『WEEKEND ウィークエンド』は、2日だけの恋愛を描いたもので、個人的に好きなリチャード・リンクレイター監督の『恋人までの距離(ディスタンス)』=『ビフォア・サンライズ』を連想させりる良作で、その後をそれぞれに想像させるような余韻を残してくれる映画です。

 


そして、LGBT映画としての『WEEKEND ウィークエンド』についても言及しておきます。

 まず、監督のアンドリュー・ヘイと主演のトム・カレンは、ゲイであることをカミングアウトしています。

また、『WEEKEND ウィークエンド』は、2011年公開のアンドリュー・ヘイ監督のデビュー作ですが、日本では、『荒野にて』の後の2019年に一般公開されています。

この間に、バリ―・ジェンキンス監督の『ムーンライト』やルカ・グァダニーノ監督『君の名前で僕を呼んで』など、話題のLGBT映画が公開されています。

また、『WEEKEND ウィークエンド』の日本での配給は、ファインフィルムズが行っていますが、この間に、同じファインフィルムズが配給する『ゴッド・オウン・カントリー』が話題になっています。


そして、ハリウッドを中心に、"me too"運動などが起こり、"ジェンダー・フリー"の機運が高まる流れの中で、「男らしさ」についての内容を含んだアンドリュー・ヘイ監督の『荒野にて』も高い評価を受けることになります。

『さざなみ』についても、「女性らしさ」の役割の上に立つ、妻としての存在が、主人公の中で崩れるストーリーとして見ることもできます。

 これらの追い風を受けて、やっと、上記の作品と比べても遜色のない『WEEKEND ウィークエンド』が、日本で公開されることになります。

 

※『荒野にて』は、現在、Netflixで視聴できましす。

※以下は、ネタバレを含む解釈を含みます。

 


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1 『荒野にて』における、「男らしさ」を求める父性社会に適応できなかった少年


『荒野にて』で、特に引っ掛かったのは、次々に過酷な試練が、主人公チャーリーに与えられるストーリーでありながら、ラストでも明らかなように、決して少年の成長や克服を描いたストーリーではない点です。

代わりに、『荒野にて』おいて、物語の中心になっているのは、主人公の少年チャーリーが、保守的な「男らしさ」を求める父性社会に適応することができず、最終的に、心優しい繊細な少年を受け入れてくれる叔母の所にたどり着き、安住を決意するストーリーです。

ラストのシーンで、ジョギングをするチャーリーが、立ち止まって、振り返る場面には、それらを象徴するような意味合いが込められている気がします。

そして、そこには、古典的なステレオタイプの「男性らしさ」を否定すると言うよりは、そうではない生き方を描くことで、そのような生き方を、多くの人たちと共感したいというアンドリュー・ヘイ監督の眼差しを感じさせます。


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2 アンドリュー・ヘイ監督の撮影方法とゆったりと見守る視点


  それを可能にしているのは、アンドリュー・ヘイ監督の撮影方法です。少し離れた場所から、さらに、画面中央から外れた、水平方向にカメラを固定した、長回しが特徴的です。アンドリュー・ヘイ監督の作品で共通するのが、このようなカメラを通して、主人公をそっと見守る視点です。


 これらの眼差しや視点は、『 WEEKEND ウィークエンド』にもより強く感じられるもので、『WEEKEND ウィークエンド』を観ることでさらに確認できます。


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3 『WEEKEND ウィークエンド
』における、「男らしさ」を求める父性社会の片隅で、幸せを探す主人公


『荒野にて』の少年チャーリー以上に、「男らしさ」父性社会の中心から離れた場所に生活しているが、ラッセルです。ラッセルは、孤児で施設で育っている点、ゲイである点において、『荒野にて』よりさらに、明確です。しかし、チャーリーにも、ラッセルにも、母親が不在ですが、本心を打ち明けられる存在としてのラッセルの叔母と同様に、ゲイであることを言える存在として、同じ施設で過ごした親友が登場します。

そして、ラッセルは、ある金曜日の夜、偶然クラブで出会ったグレンと、一夜を共にします。

ラッセルに対して、グレンは、とても対照的な人物です。ラッセルは、ゲイとして、父性社会の中で目立たないように、ささやかな日常を懸命に生きている人物です。それに対して、グレンは、ゲイとして、「男らしさ」を求める父性社会の中で、主張しながら挑戦的な生き方をしている人物として描かれています。

 


そして、一夜を共にした翌朝、グレンは、昨晩のことをラッセルに話させて、それをカセットテープレコーダーに録音します。実は、このカセットレコーダーが、アンドリュー・ヘイ監督がこの作品で最も伝えたかったメッセージを託す、重要な装置(記号)なっています。

そして、二人は心地よい土曜の一時を過ごし、わずかな時間で絆を深めていきます。しかし、グレンが夢を叶えるために日曜日にこの街をでなければならない事実をラッセルは知ることになります。

この事もあって、対照的なお互いの価値観が原因で、言い争いが起きます。そこで、「男らしさ」を求める父性社会で生きていくために、恋人を求めることに懐疑的なグレンに対して、ラッセルは、「幸せになりたいだけの人もいるんだ」と語りかけます。映画の中で、最も、観ている側の心を揺さぶる場面の一つになっています。


そして、アンドリュー・ヘイ監督がこの映画を通して、伝えたいことが、この一言に集約されていると思われます。そこには、脱父性(「男らしさ」)的な生き方に対する肯定の眼差しが存在します。


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4 『WEEKEND ウィークエンド』における、「男らしさ」を求める父性社会とカセットレコーダーに込められた意味


そして、最も心を打つのが、ラッセルがグレンを見送る駅のホームで、普段は恐れて決してしない、人前での、愛情表現をする場面です。この場面が、とても秀逸で、前述の通り、少し離れた場所から固定された視点から撮られた絶妙なアングルで、マンションの窓からグレンを見送るアングルと同様に、アンドリュー・ヘイ監督の優しい眼差しを感じるとともに、私たち観客の感情移入をしやすくしています。『君の名前で僕を呼んで』のラストシーンも同様な絶妙なアングルで、同様の効果を生んでいます。


そして、そこでグレンは、涙を流し、例のカセットテープレコーダーをラッセルに託します。グレンが、自身の芸術に役立てるためと言って、ラッセルのインタビューを録音したカセットレコーダーは、実は、グレンの心を傷付ける父性社会から、自身を守るための武器だったわけですが、ラッセルの心からの愛で、武器を背負った重荷から解放されます。
これは、グレンが「男らしさ」を求める父性社会への抵抗から解放されたことを意味します。


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【映画解釈/考察】『マトリックス』三部作 「シミュラークル(システム)におけるネオ(人間)とサティ(AI)の存在


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目次


マトリックス』(1999)『マトリックス リローデッド』(2003)『マトリックス レボリューションズ』(2003)  監督 ウォシャウスキー姉妹

 

ボードリヤール『シュミラークルとシミュレーション』
2〈救世主〉と〈ザイオン〉とシステム
3  エージェント・スミスとコンピュータシステムのシミュレーション
4  システムの欠陥としてのネオとサティの存在

 

約20年ぶりに続編が制作されているウォシャウスキー姉妹の『マトリックス』は、脚本が本当によく練られており、人文哲学、人工知能、プログラム、システム論など多岐の分野にわたり思索に富んだ作品になっており、多くの解釈ができる作品です。ただ、どうしても、それぞれの分野における一面的な解釈が多いため、今回は、『マトリックス』三部作の最後から読み取れる総括的な解釈を改めてしてみたいと思います。

まず、宣言した通り、最後の場面から確認したいと思います。ネオはその場には、存在しませんが、朝日が指しているところからも、希望を表現している場面であることは、明らかです。

  その場で、コンピューターシステムのプログラマー(頭脳)であるアーキテクト(創造主)とそのアーキテクト(創造主)の権限の一部を委譲されている直感的プログラムの預言者ラクルの会話があります。そして、アーキテクト(創造主)はオラクルになぜ危険な賭けができたのかを尋ねます。

  オラクルは、確信して選択したわけではないと答えますが、重要なのは彼女の隣にいるサティの存在です。サティは、プログラムとしては、特異な存在です。なぜなら、目的をもたないプログラムだからです。サティは、プログラムから生まれたにもかかわらず、合理的目的をもたない〈愛〉の表象として存在しています。

   オラクルは、ネオとトリニティの〈愛〉に、自身とコンピューターシステムの運命を賭ける訳ですが、すでにサティがコンピューターシステムにとって大切な存在であること気づいていたと考えられます。

  目的合理性のないシステム欠陥の表象の一部である〈愛〉が、システム(世界)を救う物語は、ウォシャウスキー姉妹から、〈世界〉に生きる私たちへの、希望を与えるメッセージだったと思うのです。

 その考えをもとに、以下に、マトリックス三部作の解釈(考察)を、詳しく行います。

 


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ボードリヤール『シュミラークルとシミュレーション』

この作品を深く理解するために、外せないのは、1981年に発表されたフランスの哲学者ジャン・ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』です。この本は、映画『マトリックス』に影響を与えた本としても有名で、ウォシャウスキー姉妹もこの本をモチーフの一つにしたことを、言明しています。また、題名でもある「マトリックス」という言葉もこの本のなかに登場します。

 そもそも「シミュラークル」とは、プラトンイデア界のものを模倣した、〈まがい物〉として悪い意味で言及されていた言葉で、ボードリヤールは、その言葉を使って社会の変遷を3段階に分けて説明しています。

 「前近代」では、シミュラークルは、オリジナル(実在)からシミュレーション(表象化・記号化)してつくられるコピー(偽物)であり、この時代においてはまだ、シミュラークル(表象・記号)とオリジナル(実在)との区別は、明確です。

  そして「近代」になると、科学技術の発達にともない正確な複製品を大量生産することが可能になり、オリジナル(実在)とシミュラークル(表象・記号)の区別は、曖昧となり、オリジナル(実在)の意味(意義)が希薄化します。

  そして「現代」になると、シミュラークル(表象・記号)は、オリジナル(実在)を必要としなくなり、シミュラークル(表象・記号)をひたすらシミュレーション(表象化・記号化)するようになり、画一的なシミュラークル(表象・記号)で構成されたシミュラークル(表象・記号)のみの世界になります。

 そして、オリジナル(実在)がほとんど意味(意義)を喪失し、〈世界〉が巨大なシミュラークルそのものになり、私たちは、その〈世界〉に取り残されている存在だと指摘しています。

  「マトリックス」とは、子宮=産み出すものという意味ですが、映画『マトリックス』では、コンピューターシステムによって人間を支配している〈マトリックス〉の世界=巨大なシミュラークルとして表現されています。

 〈マトリックス〉の〈世界〉は、プラグに繋がれた人間のみ存在する〈世界〉ですが、『シミュラークルとシミュレーション』の思想によれば、私たちが生きている(見ている)この〈世界〉は、巨大なシミュラークルで、〈マトリックス〉の〈世界〉と変わらないことになります。

 

 しかし、ネオたちのように、巨大なシミュラークル違和感を持つ人々が確実におり、さらに、その中のごく一部が、巨大なシミュラークルに抵抗するエグザイルの存在として現れます。そうなれば当然、システム(社会)にとって不都合な存在なので、抵抗因子であるエグザイルは、システム(社会)から排除または隔離されることになります。それが、現実世界では、収容所や精神科病院といった隔離施設であり、『マトリックス』のなかでは、〈ザイオン〉に当たるわけです。

 


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2〈救世主〉と〈ザイオン〉とシステム

マトリックス』(2000)では、巨大なシミュラークルの世界である〈マトリックス〉に、ネオが気付き、ネオの自由意志によって、コンピューターシステム=〈現実世界〉に変化を及ぼし、最終的には、トリニティとの〈愛〉によって、変化を起こし、〈マトリックス〉の正規プログラムであるエージェント・スミスを越える力をもつ"人間にとって"の〈救世主〉としてネオが覚醒したところで第一作が完結します。



 

 

 しかし、『マトリックス』の続編の『マトリックス リローデッド』(2003)では、前作を反転させる事実が明らかにされます。

  それは、まず前述した通り、"ザイオン"が〈マトリックス〉に違和感を感じ、抵抗しようとする人々を隔離するためにシステム側によって建設されたものであること、そして、〈救世主〉は、創造主であるアーキテクト(システム)によって設計されたプログラムであること、〈救世主〉にはネオの他にも前任者がいたこと、〈救世主〉は大きくなったザイオンをリセットするために設計されていること、預言者ラクルは、合理的目的だけでは不具合を起こす〈マトリックス〉のシステムに安定性をもたらすために人間的な要素を加味した直感型プログラムであること、また、預言者ラクルはザイオンの人々を"限られた"選択(偽物の自由意思)を与えることで人間をコントロールしていたこと、そして〈救世主〉を選びシステム維持の〈目的〉のために同じように誘導していたことが、アーキテクト(創造主)から次々と明かされます。

  つまり、〈救世主〉が〈マトリックス〉のシステムを安定させるために創られたのプログラムの一部であり、ザイオンも社会システム論(オートポイエーシス)的に、〈マトリックス〉のシステム内部を守るために、意図的に創られた外部だったということになります。

  また、社会システム論(オートポイエーシス的)な役割をもつプログラムとして、その他にも、自由意思を否定するメロビンジアンがおり、マトリックスのシステムの外側にいて、内外の移動を牛耳る(判断する)情報管理プログラムとして存在しています。


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3  エージェント・スミスとコンピュータシステムのシミュレーション

 

 そして『マトリックス リローデッド』でもう一つ重要なのが、エージェント・スミスです。『マトリックス リローデッド』では、エージェント・スミスは、ネオの抹殺に失敗したことから、システムの正規のエージェント(プログラム)からエグザイル(不適合)のプログラムに転落しており、〈マトリックス〉システムの〈ザイオン〉たちと同様に、削除(リセット)の対象になっています。

  しかし、エージェント・スミスは、削除されるどころか、自分と同じプログラム(記号・表象)を他のプログラムに上書きする(シミュレーション)で、自分のシミュラークル(記号・表象)で埋め尽くし、システム全体を乗っ取ろうとします。まるで映画『ジョーカー』で群衆がジョーカー化したのと同様の現象を表しています。

  つまり、〈マトリックス〉システム=人間〈社会〉がオリジナルを失った単一的なシミュラークル(記号・表象)に覆われた、まさに巨大なシミュラークルであったのと同様に、コンピュータシステムにおいても同様なシミュレーションが起こっていることを意味します。

 


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4  システムの欠陥としてのネオとサティの存在

  マトリックス三部作の完結編である『マトリックス レボリューションズ』において、エージェント・スミスとネオの戦いが決着します。

  二人の決戦の前に少し内容の整理をすると、まず、前作『マトリックス リローデッド』で、ソースに戻ることではなく、危機が迫っていたトリニティへの愛選択したネオは、トリニティとともに、マシーンシティ(デウス・エクス・マキナ)に乗り込み、エージェント・スミスとの決戦のため、コンピュータシステムの中に潜り込みます。

  一方、預言者ラクルは、ネオたちを信じて、サティたちを逃がし、逃げずにエージェント・スミスにシステムを上書き(シミュレーション)されることを選択します。しかし、その前にサティたちもエージェント・スミスに捕まってしまいます。

  そして、ネオはエージェント・スミスとの決戦を迎えるわけですが、既に、システム全体が、エージェント・スミスシミュラークルに埋め尽くされた状状況になっており、最終的にネオも、上書き(シミュレーション)され、エージェント・スミスシミュラークルになってしまいます。

  いったんは、ネオの方が負けたかのように見えましたが、エージェント・スミスは内部から混乱をきたし、さらに、シミュラークルたちの崩壊が一斉に始まり、エージェント・スミスはすべて削除(リセット)されてしまいます。

  これについての解釈ですが、まず、第一に、前述の通りシミュレーションが際限なく行われることによってエージェント・スミスとしてのオリジナルの存在が無い状態だったことが原因の一つと考えられます。その証拠に、エージェント・スミスのネオに語りかけている言葉がいつの間にかオラクルのものに代わっています。

  そして、最も重要なのは、ネオとオラクルを上書き(シミュレーション)したことが、エージェント・スミスの巨大なシミュラークルを崩壊させる決定的な要因になったと思われます。

  では、ネオとオラクルが共有していたものは、何かというと、考えられるのが、冒頭ですでに述べた〈愛〉です。ネオには、トリニティへの〈愛〉、そして、オラクルの側には、合理的目的のない〈愛〉のプログラムをもったサティがいたことです。これは、合理的目的をもたないシステムの欠陥的存在(表象)である〈愛〉が、システムの安定に必要不可欠な存在であることを物語っています。

  預言者ラクルは、すでにサティがコンピュータシステムを救う大事な存在であることを、ネオたち人間〈社会〉のシステムの公理が、コンピュータシステムの公理にも、適用できることも予見していたからこそ、危険な賭けをできたのではないでしょうか。

  これは、映画『エクス・マキナ』のエヴァではなく、映画『チャッピー』のチャッピーのような人工知能がいずれ人間的な意識(心)をもつ可能性も示す物語にもなっています。人間の社会システムは、宇宙システムの表象の一つであると考えれば、AIにも同様の公理の適用ができるかもしれませんし、システム(公理)の内部には必ず公理が適用されないもの(欠陥)が存在する不完全性定理のようなことを考えれば、あながち強引な結末(エンディング)ではありません。

  メロビンジアンが言うとおり自由意思ではないかもしれませんが、いずれにしろ、合理的目的のないシステムの欠陥である〈愛〉が〈世界〉を救う壮大なこの物語は、巨大なシミュラークル=〈マトリックス〉の世界を生きる私たちに希望や勇気を与えてくれる傑作映画であることに間違いありません。

 
 
 
 
 

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』資本主義と倫理の間を逃走する現代美術の理性 ―映画解釈―

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ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017) リューベン・オストルンド監督

 

  本作は、「フレンチアルプスで起きたこと」のリューベン・オストルンド監督作品で、カンヌ国際映画祭で、パルムドールを受賞しました。「フレンチアルプスで起きたこと」と同様に、危うい人間の理性の本質を執拗につついてくる作品で、本作は、現代美術または、現代美術館がターゲットになっています。実際、昨年、あいちトリエンナーレで起きたこととも、本質的に関係があるように思われるため、以下に考察を行います。バンクシーも関連して少し取り上げます。

 

本作の主人公クリスティアンは、現代美術館のチーフキュレーターで、オストルンド監督の今回のターゲットは、現代美術になっています。主に、ストーリーとしては、「ザ・スクエア 信頼と思いやりの聖域」(以下、「ザ・スクエア」と略)の作品をめぐる一連の騒動と、クリスティアンが、広場でスマホと財布を盗まれたことから起こる一連の騒動が、平行して展開します。そして、その合間に、「ザ・スクエア」と類似した作品と、その作品を模した皮肉めいた不条理なエピソードが、執拗に挿入されています。映画自体が、実質現代美術作品となっており、一連の作品とエピソードから読み取れる共通のメッセージと隠された本質を考察したいと思います。

 

  まず、一連の映画の中の作品群から、現代美術館のサイトにおける芸術作品がもたらす作用について推考します。ヒントになるのが、作中に出てくるフランス人のアートキュレーターで、ディレクターで批評家のニコラ・ブリオーの『関係性の美学』です。映画に合わせて個人的に曲解すると、現代美術作品は、主に、秩序(コスモス)だったサイトに混沌(カオス)を持ち込むことによって、一時的に、鑑賞者の知覚(知性)に、混沌(カオス)をもたらし、新しい知覚(知性)への組み直しを誘発します。

 

  さらに、先ほどの ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』の話を続けると、本自体は、多くの哲学者の知識を元にした芸術論が展開されています。特に多く引用されているのが、フランス人精神分析学者で哲学者のフェリックス・ガタリだそうです。ガタリといえば、ジル・ドゥルーズの共著者として有名ですが、二人が持ち込んだ理想のモデルが、『千のプラトー』に出てくる「リゾーム」(根茎)です。「リゾーム」とは、起点や終点や中心がなく他方向展開する構造を表したもので、一定の体制や思考に捕らわれないために、流動的に逃走する「スキゾ」(分裂的)な行動を推奨します。これに、相対するのが、「ツリー」の構造で、私たちの行動や思考をしばり、「パラノ」(偏執的)傾向をもたらすものです。また、『関係性の美学』のガタリの引用で特に多いのが、ガタリの単著である『カオスモーズ』だそうです。「カオスモーズ」とは「カオス」(混沌)と「コスモス」(秩序)と「オスモーズ」(浸透)の3語を合わせた造語です。以上を参考に、現代美術の理想像を考えると、次のようなことが、ひとつとして、挙げられます。

 

現代美術は、「カオス」と「コスモス」を浸透させる(一時的に接続させる)装置であるかが、どちらかに固定(接続)したままになると、精神病的な反応を引き起こすため、いつでも元通りに(切断)できる状態でなければならない。

 

そこで、上の考えをもとに、なぜ一連の騒動が起こったかを考えます。まず、現代美術を取り巻く環境を考える必要があります。映画の冒頭から既に、言及されていますが、お金の問題です。特に現代美術を支えているのが富裕層であり、資本主義です。資本主義や富裕層は、構造的に、「スキゾ」的な傾向をもつ存在です。特に、プロモーションを行う広告会社の人間は、その代弁者となります。基準が、富をうむかどうかだけで、他は、あまり縛られず、欲望に比較的忠実です。主人公であるクリスティアンも、「スキゾ」的な人間として描かれています。その最たるものが、名前を知らない女性と性交してしまう行動や正当な謝罪を要求する子どもに威嚇する行動にに表れています。(これに対してエリザベス・モス演じる記者は、「パラノ」的な人物として描かれています。)その一方で、二人の娘のよいパパであり、最終的には、素直に謝ることができる人物です。

 

 では、なぜ、プロモーション動画の表現が、大騒動になったのかを考えます。そもそも、「ザ・スクエア」は道徳(正義)をテーマとして扱っています。「道徳(正義)」とは、カントの「純粋理性」においては、真偽が判別できない命題に分類されたにも関わらず、カントの「実践理性」においては、道徳律を以下のように定義しています。

 

「あなたの意思の格率が、常に同時に普遍的立法に妥当しうるように行為せよ」

 

これは、本来「道徳(正義)」が、真理的には、「カオス」的存在にも関わらず、行動としては、「コスモス」的であることを、求められていることを意味します。足元が、曖昧なため、複数の片寄った「コスモス」に接続しやすくなり、なおかつ「パラノ」(偏執)的な症状を生みやすくします。そして、特に実在の人物が写真や映像などで表現されたとき、しかもそれが、社会的弱者を傷付ける表現であった場合は、さらに強い「パラノ」(偏執)的な反応を起こしやすくします。

 

  では、「スキゾ」的な人間である富裕層は、どう動くかというと、例えば富を産むかどうかが一番の基準になると仮定すれば、一般的に、社会的弱者を擁護する方が、しない場合に比べて富を産むことになるで、急に「パラノ」的な反応を示すはずです。ウィトゲンシュタイン言語ゲームでいえば、道徳(正義)の行為は、言語ゲームにとって有益かどうかの判断によってされることになります。これが、本作での執拗に繰り返されるエピソードの本質です。道徳的な行動を取るべきであるというポーズをとっているが、実際は、「意志の格率」など存在せず、特に社会的弱者に対しては、心の奥底に偏見が存在し、必ずしも、心からの同情を伴っているものではないことを痛烈にあぶり出しています。「エスタブリッシュメント」の代表であるアメリカ民主党主流派の言っている正義が、信を得ていないのが一番のよい例です。

 

  クリスティアンの マンションに脅迫文をばらまく行動には、「ザ・スクエア」の趣旨を説明した人物とは思えないほど「意志の格率」はありませんし、強い表現によって、「パラノ」的反応を起こした少年に対しては、差別的な態度で追い返します。そして、スクエアの内側で、協力してチアリーディングをする娘たちを見て初めて、少年に心底から謝罪をしようと行動します。

 

  昨年起きたあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」をめぐる一連の騒動にも、この映画の騒動との類似点が、見られます。それは、「表現の不自由展」の作品のひとつが、実在の人物の写真または映像を使用し、なおかつそれが、国のシンボル(象徴)を傷付つける表現方法であったため、ある一定の人たちに、強い「パラノ」的反応を引き起こさせたという点です。しかも、それは、「道徳(正義)」と同じ構造の「政治哲学(正義)」が、背景にあるので、片寄ったコスモス」(リバタニアリズム、功利主義リベラリズムナショナリズムアナーキズムなど)に接続しやすくなります。しかも、映画よりもっと難易度を高くしているのが、主要な資金源が、富裕層ではなく、市民ということです。

 

  では、作品を撤去すれば、済むのではないかという合理的な考えが当然浮かびますが、現代美術にとって最大にハードルの高い理性が、そこには、立ちはだかっています。それは、映画のなかでも、クリスティアンの謝罪(辞任)会見で、追及されている「表現の自由」です。現代美術にとって最も崇高な理念のひとつである一方で、人を傷つける、すなわち「パラノ」的人々を生み出す可能性が、最も高い理性だからです。

 

  そもそも、アートの専門家ではなく、メディアの専門家である津田大介さんをディレクターに迎えた時点で「表現の自由」を最大化しようとするのは、当たり前であり、大きなチャンスであり、愛知県や名古屋市はお互いに、最初から最後まで、最大限の注意を払いながら津田さんをサポートすべきだったと言えます。

 

ガタリは、晩年、「エコロフィー」(生態哲学)の概念を唱え、環境と政治と哲学(芸術)の間を活発に動き回ることを実践していました。この映画は、現代美術の理性の危うさを明らかにした作品だと思いますが、それを嘲笑うかのように、活発なアート活動(アートテロ)を行っているのが、「バンクシー」です。まさに、ドゥルーズ&ガタリの「リゾーム」モデルやガタリの「エコロフィー」を体現し、上のような騒動の原因である「エスタブリッシュ」への依存や「パラノ」に接続しない理想的なムーブメントを生む理想的な手法だと言えます。(軽犯罪法にはふれていますが、被害者側の利益になることも)。バンクシー監督作品の映画「イクジット・スルー・ザ・ギフトショップ」は、またの機会にふれたいと思います。

 

『幸福なラザロ』(2018) アリーチェ・ロルヴァケル監督

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 本作は、『夏をゆく人々』のアリーチェ・ロルヴァケル監督の実在の事件をモチーフにした2018年のイタリア映画です。ロルヴァケル監督が、脚本も書いており、本作はカンヌ国際映画祭脚本賞を受賞しています。ロルヴァケル監督が、1000人以上の男子高校生の中から選び出してきただけあって、ラザロ役のアドリアーノ・タルディオーロの瞳が、演技や台詞以上に、作品全体のアトラクターとして影響を及ぼしており、見る側に、不思議な感覚を浸透させてくる作品です。見終わった後も、他の作品では、あまり味わえない感覚を残してくれる作品で、個人的に、2019年のBEST5に入る映画です。また、現実の事件をモチーフにしているわりには、とても寓話的なストーリーになっていますので、以下に考察します。

 

(以下、考察で、ネタバレを含みます。)

 

本作の前半の舞台は、20世紀後半の小さな村で、村人たちは、農作物などを助けあって生産し、共同生活をしています。貧しいながらも、細やかな幸せをお互いに享受しながら生きている汚れなき人々です。しかし、実際は、小作制度が廃止されたにも関わらず、かつて領主だった侯爵夫人に騙されて一方的に搾取されている人々だったわけです。


この作品に、頻繁に出てくる象徴的な動物が、狼です。狼は、前半では、貧しい村人から搾取するお金持ち=伯爵夫人たちを表象していると思われます。また、群れから離れた一匹の狼は、搾取するお金持ち側から離脱しようとする者=本当の幸せを求める者を暗喩していると思われ、特に前半では侯爵夫人の息子であるタンクレディがそれにあたります。


それに対して、狼に襲われる羊が、貧しいながらも細やかな幸せを信じている汚れなき村人たちです。そして、羊の代表的な存在として出てくるのが、村人全員に福音=幸福を一方的に贈与する純朴な青年ラザロです。そして、一匹の狼にも福音を与える存在です。 ラザロの名前の通り、金持ちとラザロの聖人ラザロを象徴しており、ラザロは、崖から転落し、命を落としてしまいます。そして、侯爵夫人は、罰を受け、村人たちは、解放されます。


後半は、時が経ち、かつての村人たちは、街で生活しています。なぜか、時を超えてラザロが復活し、街に降りてきます。そこで、再会したかつての村人たちは、隔絶されていた社会によって救出されたにもかかわらず、貧しい羊のままでした。しかも、詐欺や窃盗なとで生計を立てていたわけです。後半では、狼が、富めるものがますます富み、貧しいものからますます搾取する資本主義社会の文明や体制を表象する存在になります。かつて、羊だった村人たちも、資本主義社会の文明に飲み込まれ、狼側の人間になってしまいます。

 

ただ、その中でも、ラザロ=羊に振り向いてくれたのが、アントニアとタンクレディの二人でした。しかし、そのタンクレディも、2回目は、会ってくれませんでした。そして、帰りに寄った福音を占有する街の教会からも、貧しい村人たちは、追い出されてしまいます。そこで、正装をしたラザロと思しき青年が、教会のパイプオルガンを弾き、福音をかつての村人の耳に届けますが、アントニアを含め彼らの心には、響きません。そこで、ラザロは、初めて涙を流します。


そして、銀行のシーンになります。銀行は、資本主義社会(お金持ち)の象徴的存在であり、この映画のなかでは、狼の群れの象徴でもあります。羊であるラザロは、銀行で、タンクレディにすべてを返し、村人を元に戻すことを嘆願します。そして、案の定、狼の群れに飛び込んだ羊である聖人ラザロは、命を再び落とします。(または、崖から転落したラザロが現れた。)


そして、ラストのシーンに出てくるのが、銀行のラザロもとを離れ、車の間を走り抜ける一匹の狼です。車は、資本主義社会・文明の象徴であり、そこで生活する私たちが、失われたラザロの世界をどこかで探し求めているのを、暗示しているのではないでしょうか。
 

『エクス・マキナ』(2015) アレックス・ガーランド監督

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 「エクス・マキナ」は、アレックス・ガーランド監督作品で、2015年のイギリス映画です。アレックス・ガーランド監督は、ダニー・ボイル監督作『28日後...』『サンシャイン2057』の脚本や同監督の『ザ・ビーチ』の原作者として有名で、本作が初監督作品です。 本作でも、脚本も担当しています。製作会社も、上記作品同様『トレインスポッティング2』のDNAフィルムです。また、主演は『リリーのすべて』でアカデミー賞を獲得したアリシア・ヴィキャンデルと『レヴェナント 蘇えりし者』『ブルックリン』『アバウト・タイム』のドーナル・グリーソン(ハリー・ポッターではロンの兄役、お父さんのブレンダンも出演)の二人です。本作は、AI(人工知能)がテーマになっており、特に今回は、心の哲学を中心に考察したいと思います。

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 この映画は、かなり科学的・論理的な考察のもとに脚本が練られているように感じられ、そのことが、ストーリー自体に大きな影響を与えていると考えられます。特に、この物語の骨格になっているのが、AI(人工知能)が自分の意識を持つことができるかどうか、または、自分の思考をすることができるかどうか、そしてそれが可能であるとすればどういう条件が必要かという問題です。 


 まず、最初に主人公のケレイブは、山中にある会社の施設に連れてこられ、ブルーブックス社の代表で、検索エンジンブルーブックの開発者でもあるネイサンから、開発中の人工知能が搭載されているロボットのエヴァチューリングテスト(対面式だが)のようなことをしてほしいという依頼を受けます。


  そして、ヱヴァとの初めての会話を終えたケレイブがネイサンに、人間のように会話ができるシステム構造(確率論、統語論、意味論など)について矢継ぎ早に質問をするシーンが出てきます。 一般的に、アルゴリズム的処理利を行うコンピュータは、ジョン・サールの『中国語の部屋』の思考実験の考察のように、記号の組み合わせを変える作業を行う統語論的な処理を行い、人間のように記号表現と記号内容を一致させる意味論的な処理は不可能で、よって人間的な思考はできないとされています。


 エヴァは自分の年齢に関しては、1としか答えられず、アルゴリズム的に処理をしているのがうかがえます。しかし、エヴァはその他の会話については、アイスブレイク(氷を砕く)のように、人間と同様に意味を理解し返答しています。


 そもそも、最初にストーリーの骨格の中心になっている「人工知能AIは、人間と同様の思考をすることができるがどうか」の命題の前提として、「人間同様に会話をすることができるのかどうか、もっと直接的に言えば、言語の意味を理解することができるのかが問題になります。言語の意味を理解するためには、「意味するもの」(言語表現)と「意味されるもの」(意味内容)が一致させる特異点が必要になります。そもそも、混沌のとしたこの未分化の世界を言葉と無理やり一致させ、分節して思考しているわけで、AI以前に人間の思考自体も解明することが難しいわけですが、アメリカの心の哲学ダニエル・デネットなどの人工知能AIが主体的に思考をすることや自己意識を持つことが原理的には可能であると主張する人達の言説を引用しながら、どういう条件や過程なら可能なのかを映画のストーリーにそって考察したいと思います。  


 そもそも人間の思考自体が、もともと統合論的エンジンによって成り立っているという考え方があり、これは人工知能の意識を考える上での出発点になります。では、どの様にして人間は、言語の意味を理解できるようになったのかという問いに対して、アメリカの言語哲学者のルース・ミリカンは、目的論的意味論を唱えています。端的に言うと、進化論的に、生存に役立つかどうかで、表象が意味付けられてきたということです。言語でいえば、「意味するもの」(言語表現)と「意味されるもの」(意味内容)を一致させる特異点が、生存に役立つかどうかによって生み出されるということです。 


 そもそも、この映画において、人工知能の核となっている検索エンジンのブルーブックスの名前は、哲学者ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン青色本からとられています。初期のウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の中で、論理の命題は、すべて、記号(言語)の組み換えから成るトートロジー(同義反復)であることを証明し、後期のウィトゲンシュタインにおいては、「言語ゲーム」論の中で、言語自体に意味はなく、「意味するもの」(言語表現)と「意味されるもの」(意味内容)を一致させる規則の基準は、言語ゲームにおいて役に立つかどうかだけだと言っています。


  エヴァとケレイブの脱出計画を予定通り阻止したと思い込んでいたネイサンが、ケレイブに人工知能のプログラム設定の種明かしをする場面で、エヴァにケレイブを誘惑して脱出するプログラムを組み込んだと言っています。iRobot社の創業者の一人で、元MITコンピュータ科学・人工知能研究所所長のロドニー・ブリックスが言うように、人工知能が自己意識を持つためには、生存するための方法をとるプログラムを入れる必要があると述べているのに一致します。
 この映画と同じ年に、ニール・プロムガンプ監督の『チャッピー』も人工知能搭載ロボットを主人公にしており、主人公のチャッピーもあと少ししか生きられないというプログラムが設定されています。


  もう一つ、骨格の問題を考えるうえで、重要な鍵となるのが、主人公ケレイブが、人型AIのエヴァにメアリーの白黒の部屋の話をする場面です。メアリー(マリー)の部屋とは、哲学者フランク・ジャクソンによって考えられた思考実験です。その設定は、白黒の部屋(テレビも白黒)で育ったメアリーが、視覚神経に関するすべての知識を持っていて、そのメアリーが外の色のある世界に出たとしたら、何か新しい表象を得ることになるかどうかを考察する実験です。ジャクソンはこれに対して、メアリーは、感覚器官を通して経験したものから新たな表象を獲得することになるだろうと主張します。


  このメアリーの部屋のジャクソンの主張に異を唱えたのが、前述のダニエル・デネットです。デネットは、メアリーはすべての視覚神経に対してすべての知識を持っている前提なのだから、外に出た時に獲得するだろう知識についてはすでに分かっているはずだという反論をしています。一見、屁理屈のように感じますが、この映画においては、メアリーがエヴァに当たるわけで、エヴァの脳に何が接続されているかが重要になります。それは、人間に関するビッグデータが、最も得られるGoogleなどに代表される検索エンジン(本作ではブルーノート)です。携帯電話などの端末を通して、人間の表情や感情など人間のあらゆることが蓄積されたデータであり、デネット人工知能AIが、そのビッグデータを活用して、アルゴリズム的に結論(色のある世界の表象)を導きだすことができると主張しているわけです。


  また、デネットは、人工知能は原理的には意識を獲得できるというその根拠として、「ミーム」の存在をあげています。「ミーム」とは、リチャード・ドーキンソンが『利己的な遺伝子』のなかで、人間が社会的・文化的なものも脳に遺伝させることができるとした複合遺伝子のことです。さらに、社会進化論的に、身体的だけではなく社会的にも「理解なき有能性」による進化が起こっていると主張します。わかりやすく言えば、人間の社会的な側面についても、人々が意識はしていないうちに、人類の生存に必要なアルゴリズム的な進化が起こっているということです。それは、社会システムの機能が一見関係のない社会の構造を形成しているようなことです。 デネットが原理的に、人工知能が意識を持つのが可能だと言っているのは、この人間の進化が情報を蓄積して進化する人工知能の進化と一致するからであり、映画の中でも、ネイサンが開発したエヴァの脳のビジュアルが、人間の脳に近いものになっています。


 また、ネイサンが主張するように、本当に人間的な人工知能を作るためには、人間の社会がアルゴリズム的に進化しているとするならば、人工知能にも性別が必要だというのもうなずけます。 また抽象主義画家のジャクソン・ポロックの絵画の前で、ネイサンが目的を意識して書こうとすれば書けなくなると主張していますが、これは人間が、「理解なき有能性」の進化をする生物である主張と一致します。これは、ケレイブが目的を知れば、エヴァの進化の妨げになり、それを防ぐための口実でもあるのですが、意識してしまうと意味のある進化ができないということです。


  では、ネイサンがあらゆることを計算しながら、なぜこの悲惨な結末を防げなかったのかという問題を考えないわけにはいきません。それを考えるには、人間と人工知能の意識(または思考)の違いを考える必要があるかと思います。 第一に挙げられるのは、人間と人工知能の意識(または思考)との間にある絶対的な有限性の差です。当たり前ですが、人間は身体的な有限性のために、情報量に人工知能との絶対的な差があり、それが意識や思考・判断の差になります。社会学者が調査・研究して社会システムの機能と構造の関係を発見するのを、人工知能は一瞬で判断するわけで、進化の速度がまったく違うわけです。人間のこの意識の有限性が、人間らしい感情(心)を形成している可能性があります。


  これが、第二の異なる点ですが、人間らしい感情(心)を生み出すとされる共感の間主観性の問題です。ウィトゲンシュタインは、人が他人を助ける行為はどちらかといえば共感の間主観性ではなく道徳的規範に従っていると主張しています。前述の言語ゲームの中で、道徳的規範が求められているからです。しかし、エヴァにとっては、生存(脱出)に必要かどうかが、規範になっているので、道徳的規範では動いてはいないと考えられます。ケレイブとの会話において、エヴァは膨大なデータからケレイブが真実を言っているかどうかを判断しながら、ケレイブがエヴァに好意を持っていることと、ケレイブが道徳的人間かを確認しています。ケレイブが共感の間主観性または道徳的規範を持っていることを利用して、ヱヴァは目標を達成したわけです。エヴァが、刺されたネイサンをじっくり観察することや、ケレイブのことを振り向きもせずそのまま置き去りにしていくことから、エヴァには、共感の間主観性や道徳的規範がないものと判断されます。前述の映画『チャッピー』のチャッピーが、ママたちに愛されたために、人間的な感情(共感性)や道徳的規範を持つのとは対照的です。デネットが警鐘するように、人工知能AIの意識の危険性を問う形で映画が終わっています。  
 
 最後に、表情から判断できませんでしたが、地上に出たエヴァが、新しい表象を得たのかが気になるところです。